あの子たちはおとぎの国に寝そべり 夢のうちに明け暮れている
夢のうちに 夏は数多たびめぐり――
いつまでも ながれを漂いくだり――
金色のひかりのうちを たゆたう――
いのちとは 夢 でなくてどうする?
――Lewis Carroll
“Through the Looking-Glass, and What Alice Found There”
あの子が月から落ちてきて、およそ二週間が経とうとする夜。
極めて思わしくない事態だ、とは重々承知していた。遣り場のない焦燥を内包して、苛立つ眼差しが暝天を仰ぐ。朧に見え始めているのは、うつくしく弧を描いた月の眉。月を月として視認できるのは、おそらく今宵が最後だろう。
詰まるところ、月が、
消えかけている。女王に言い渡された期限が、もう程近くまで差し迫っている。このままでは二人分の斬首と、その先にあるおぞましい遊戯は避けられまい。
「
刻限が到来しかけていることを承知しているな?」
何の前触れもなく現れた、闇色の影――ナイトメアが、僕を見据えて淡々と告げた。
ああ、むろん承知している。最悪の結果が手ぐすね引いて待っていること。
背筋を冷やして固唾をのんだ刹那、深くも温度のない嘆息が耳を打った。
「
……不甲斐ないにも程があるな。猶予に重なる猶予を与えられておいて、未だ思い出す兆しすら見せないとは。」
冷たく静かな夜の色、滅多に感情が宿ることのなかった黒曜石の双眸。それが初めて、明確な意思を以てこちらを睨み据えていた。怒りを通り越した呆れ、その中に微か雑じる哀憐。いずれも向けられる覚えがなく、恐怖よりも困惑に身が竦む。
解せないながらも彼の言葉をそのまま受け取るならば、若しかすると“覚えがない”こと自体が罪なのだろうか。
「
ここから出ていくべき余所者は、あの娘のみではない。お前もだ。お前は、この世界の住民ではない」
考えが及ぶより早く、解を投げつけられる。一体何をと反論が口を突かなかったのは、どこか、腑に落ちる自分も居たから。
周りの住民と比して、僕の記憶にはあまりにも不確かな部分が多い。特にここ二週間――“彼女”と出会ってからは、ボタンを一つ掛け違えたような違和感が一層顕著になっていた。ある筈の記憶が失せている、何かがぽっかりと抜けている、そんな漠然とした感覚が。
「
――…否、抑も本来追い出そうとしているのはお前一人だ。迷い込んだ娘の方は、方法さえ教えればすぐにも帰ることは叶っただろう。
女王陛下からは、自力で思い出すまで待てと仰せ付かったが……もう今宵だ、止むを得ない。」
ナイトメアはそう言って、白く指の長い掌を翳す。
瞬間、眼前の景色がぐにゃりと歪むような眩暈に襲われた。脳裡に木霊する声と残像が、まやかしの凪いだ水面をいとも容易く掻き乱す。押し寄せる渦、その名は記憶。まるで警鐘か嵐のように囂々と鳴り響く、その名は真実。
ああ、……ああ、そうだ。……確かに、そうだった。
僕は 、 僕 は 。
この身を貫く、悪夢のような記憶。
真に悪夢ならば、きっと良かった。
されど、夢とは他ならぬ今この時。希望も幸福も決して潰えないワンダーランドは、古往今来、愚かな人間が焦がれてやまずに見続ける夢。
僕もまた、辛い現実から逃れた弱き者。夢へ逃避してきた、愚かな人間に過ぎなかった。
「
――…あら? これは何かしら」
長からぬ期間で“わたしの家”と呼べるくらいに住み慣れてしまった一軒家の中で、一冊の本を見つけた。テーブルの上か枕元か、ともかく昨日までは何もなかったはずの場所に。
紺色の表紙に、金の箔押しで“Read me”――“わたしを読んで”と記されている。
ああ、あの童話にもこんな場面があったっけ。本じゃなくてワインやアッペルクーヘンだったけれど、シチュエーションだけならよく似ているわ。
ごく呑気な気持ちで、もう何が現れても驚かないつもりで、わたしはそっと表紙をひらいた。
紙面を追おうとした視線はほどなく、ページを繰る指もろとも止まってしまう。隅にちいさく描かれた挿絵が“彼”と瓜二つの姿をしていたことと、――なにより、その内容に。
読み終えた後も、しばらく身体が動かなかった。
でくの坊みたいになりながら、閃くように思い出す。ここに迷い込む前、たしかに聞こえた誰かの声。望みをほとんど失っている一方で、一縷の希望を捨てきれずにいるような。手を伸ばし、悲痛に縋るような“助けて”の響き。
ああ、どうして今まで気付かなかったのかしら。あれは、――あれは、彼の声だった!
整理しきれない思考に溺れかけるさなか、「
それが、あの男の真実じゃ」と。聞き覚えのある声が、近しい記憶よりずっと静かに、気遣わしげに響いた。
振り返った先、音も気配もなく現れていた赤の女王。何かを言おうとする前に、勢いよく頭を下げられた。……あの女王さまが頭を下げた?と、驚きを挟み込む余地もなく。
「
すまなかった。そなたが此処へ落ちてきてから、ずっと。あの男にも、そなたにも……長らく事実を隠し続けて。」
心からの詫び言のあと、顔を上げた女王さまはおごそかに語り始めた。
この本に記されている内容はすべて事実、ほかならぬ“彼”の真実であること。
女王さまはナイトメアが何か隠し事をしているらしいのを知って、白状させた後に自分も協力すると決めたこと――「
側近の癖に、わらわに秘め事なぞ水臭いことを」なんてくちびるを尖らせながら――彼を住民として受け容れた少し後に、たまたまわたしが落っこちてきたこと。
物騒な命令に隠したほんとうの目的は、彼をわたしと一緒に“元の世界へ帰す”……すなわち、夢から目覚めさせることだったらしい。
顛末を聞き終えて、未だ忙しい胸の中にちいさな疑問が鎌首を擡げる。
死のうとしていた人の心を、夢の世界に避難させるなんて。人助けなのかお節介なのかはわからないけれど、ずいぶん人間味のある措置に思えた。だからこそ、すこし意外だった。自分本位に見えていた女王さまと、女王さま以外に興味のなさそうなナイトメアが、どうしてそこまでしてくれたのだろうかと。
「
ああ、誤解するでないぞ?わらわもナイトメアも、妙な親切心を働かせる趣味は元よりない。今回は――…少しばかり、昔を思い出したがゆえの単なる気紛れじゃ。
未来がありながらみすみす逃れようとする輩を見ると、どうにも一発蹴飛ばしたくなるようでの?」
いたずらっぽく笑う女王さまの過去に、一体何があったのか。気にならないわけじゃなかったけれど、でも今は、それよりも。はやる心の真ん中、どうしようもなく心拍を早めさせて止まないのは……
わたしの心を察してか、ハートの王笏はまっすぐに扉のほうを指す。早く往け、と促すように。
「
さあ、ここで長々と喋っている暇もあるまい。そなた達には戻るべき現実があろう、前へ進むすべがあろう。おのれの人生から逃げ出そうとした粗忽者に、喝を入れてやるが良い!」
女王さまの高らかな言葉が終わるとともに、あの日と同じく声が聞こえた。今度は“誰か”ではなく、他ならぬわたしを呼ぶ声。あなたの声。すべてを思い出したのだろうか、それとも……ああ、どちらでも良い。考えている時間がもどかしいとばかり、気付けば一心不乱に駆け出していた。
早く、はやく。あなたのもとへ行かなければ。
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“アリス”と青年が出逢ってから約二週間後、三日月の夜。
ふたりが各々の場所で、それぞれ“真実”を知らしめられるソロールイベントです。
現実世界とは無常なものであること。奇跡は起こらない、世を去った命は戻らない、過去の出来事は消えない。厳しい事実は、辛い真実は、常に手を拱いて人々を待っていること。だからこそ古今東西、人はワンダーランドの夢を見るのだということ。
ほかならぬ現実世界から迷い込んだあなた方は、よくよく知っているはずですね。忘れていたとしても、思い出しましたことと存じます。
遠く近く離れた、あなた方にとっては故郷であろう世界。帰る道を閉ざしていたのは、他ならぬ青年の弱った心でした。“アリス”が巻き込まれたのは偶然――或いはこれを、運命や奇跡と呼ぶのやもしれませんが。
ふたりになった今と、ひとりだったあの頃。逃げ出してきた現実、還るべき場所。それぞれに何を思い、誰を想うのでしょうか。
女王に背を押された“アリス”は、青年のもとへ向かう所でロールを終えてください。
青年の方には、特に制限はありません。眼前に立ちはだかる最大の敵、すなわち現実を突きつけられたばかりとあっては、心の余裕も削がれている方が多いことと存じます。その場でご自身と向き合うなり、“アリス”を探すなりご自由にどうぞ。
どうか、良き夜のはじまりになりますように。
【開始】男性PCのソロールを確認後、女性PCのソロール
【場所】男性:自由 女性:自分の住まい
【時間】夜(日没後) 【期間】02/15~02/18