Mome Wonderland


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(はじまりを告げる 一輪)
(「好きなの?」と世良に問うたのは新しく入った事務員の女性だった。午前八時から午後五時まで、世良閏が勤めるのは小さな町工場だ。金属部品の製造を主に扱うこの工場では、大きな機械と腕っぷしのある男性達が二十四時間フル稼働で働き詰めている。これまで世良がひとりで応対していた事務仕事は、事業拡大に備えて人員を確保し二人で行うこととなった。これが二月も前のこと。年下の先輩と年上の後輩なんていう何とも面倒くさい関係性を嫌がったのは世良も女性も同様で、初日から互いに砕けた口調が定着されたのだった。そんな五つも年上の女性から一体何のことを問われたのか、瞬時に分からず呆けた顔を晒しているうちに、「その曲」と付け足されて、知らず知らずのうちに自分がとある曲を口ずさんでいたことに気が付いた。無意識だった。)……しってるの? わたしこれ、夢の中で教えてもらった歌なのに。ジャズ? しらない……。(世良は歌詞もしらない。正確には彼はきちんと歌っていたのかもしれないが、旋律ばかりが頭に残っていて歌詞までは思い出されない。英歌詞なら尚更学の無い世良には覚えきれなかった。夢ってすぐに忘れてしまうから、忘れたくなくて、この歌だけは繰り返し口遊んでいたのだとそう語る。けれど本当は今でも全部、鮮明に覚えていた。はじめましての月夜、はじめての舞踏会、鏡の森でのことや、彼の、 ほかにもこんな旋律があった。最後の夜に二人で歩んだその道中に教えてもらったものとはまた別に、これは鏡の森から助けだしてもらったとき。それともなんでもない日の。朝十時、花園に向かうと彼がうたっていた、──「わかった、青嵐雅月だ」 女性はわらう。ラジオか何かで偶然聴いた彼の曲が記憶に残っていて、そんな夢を見たんじゃないかと、ボールペンの頭を下唇に押し当てながら。インターネットに繋がれたパソコンの前へ移動して、検索バーに言われるがままの名前を入力する。それは世良にとっては聞き覚えのない名前だった。検索結果に見覚えのない顔が出てきても決して驚かない。だけど、──)

(少し釣り目の、世良閏とは似つかないころっとした瞳が女を見上げる。公園に併設された花畑をくるっと一回りする間にすっかり疲れてしまったみたいで、花壇からは少し離れた位置に設置されている公園のベンチに娘とふたり、腰かけた。公園の中央には夢の中でみたよりずっと勢いの弱った噴水。餌を求めに人に集る鳩は灰色ばかり。決して夢のような景色ではないけれど、うららかな陽だまりと木々の緑がつくる日陰の下で、ちいさなドリンクボトルから水分補給をさせた。日曜日。ぽかぽかとした陽気にあてられて、世良のお腹に抱き着くようにしてずるずると小さな背が倒れてゆく。しっとりとした肌にはりつく細くて柔らかい髪。まるで子守歌でもうたうみたいに、自然と唇から流れ出したのは彼に教わった旋律だ。)…………、……。(後から調べた歌詞を乗っけてみたけれど、どこかつたないまま。きっと逢えると信じて跳んだ夜を思い出しては、まだ見えぬ彼にも思いを馳せた。彼の名前を知り得て以降、進展はない。何処に住んでいるのかも知らない。調べれば何か、活動をしているのか否かくらい、出てきたのかもしれないけれど、結局世良が把握したこちらの彼のことは、その名前と曲くらいだった。だからいま、──いま、黒く染まった彼の髪をみて、咄嗟に唇が震えたのは、何を言おうとしたからでもない。)ぁ……、……──(口遊んでいたうたが止んで、代わりに何を言おうとしたのか、世良自身良く解っていなかっただろう。夢にまで、真実夢にまでみた、彼を見つけて。ベンチに腰かけたまま顔をくしゃりとさせて、「エセル、」と名前を呼んだ。みつけた。夢で会ったことを彼は覚えているだろうか。女性が言った通り、たまたま何処かで彼を見かけて世良が勝手に見てしまった夢だったなら、「エセル」、この呼びかけに反応をくれるはずがない。)
世良閏 2020/02/26 (Wed) 02:06 No.7
(薄っぺらい紙切れにただ自分の手で名前を書くだけ。それだけで、暗闇の中に足を踏み入れたような気持ちになるなんて誰が思ったことだろう。けれど不思議と心中はざわついていない。逃げ出したい気持ちがないとは言わないけれど、消えてしまいたいほど後ろ向きでもなく、かすれた声が病院の窓から抜けるような青を仰いで小さく旋律を紡ぐ。夢からさめる時に踏み出したあの一歩の宙に放り出されるような心もとさと、同時に繋いでいた手の心強さを思い出す音を淡くうたいながら、その時を待つのはやはりどうしても緊張して。けれどこの声がまた戻るように、祈りともつかない願いを抱いて瞼を下ろそう。眠りの魔法はあの世界のそれとは違う化学的なものだけれど、眠ってしまえば然程変わりはないだろう。そして運命は、目覚めた時にはもう決まっている。他に頼るしかなく、努力ではどうにもできないその先に、ずっと夢を見ていた。だから夢が叶うように、意識を手放すまでずっとずっとうたっていて――「手術を決めてから、ずっとうたっていますね、その曲」そう、付き添ってくれていた看護師に問いかけられた時に、男は小さく笑った。立ち止まるなと、待っていてくれるひとが背中を押してくれるうたなんです、と。鮮やかな朱の色が、瞼の裏に焼き付いていた。)

(『青嵐雅月、声帯腫瘍で手術していた』『予後は良好というが復帰は未定』そんな見出しのニュースが、昼のニュースや新聞、或いは週刊誌でちょっとした話題程度に取り上げられていただろうか。当人にとっては騒ぎ立てる声などよりも自分の事で手一杯なので、それほど気に留めていなかった。腫瘍摘出は恙なく、声帯も残すことが出来たと主治医には言われたが、白い包帯のまかれた首の下にある喉をすぐに震わすことは出来なかった。鎮痛剤を使っていても、麻酔から覚めてきたならば頭がはっきりしてくるかわりに痛みもまったくないわけでもなく。ただ持ち上げた指先でその場所をなぞってみては、淡い空気をはくはくと吸ったり吐いたりしながら唇を動かした。もしも声が出なかったらと思うと、怖くて喉を震わすこともしばらくは出来ぬまま――音のないうたは、まるで祈るようにして包帯が取れるまで続いた。病室の窓から見える青を仰ぎながら、ずっと。)

(病院の程近くに、花畑が併設された公園があった。夢の世界で住んでいた花園程は広くはないけれど、花壇はしっかりと世話をされているところは似ていると感じた部分。何よりダリアと薔薇もあり、噴水もあった。まるで花園を少し小さくした印象と感じてから、通院の度に足を運ぶようになっていた。陽だまりは天気の変わらぬ空を思い起こさせ、木々のささめきは噴水の水音が小さい代わりにうたってくれているようにも思えている。通院日ではない日曜日に公園を通りかかったのは、その雰囲気に惹かれてのことでもあった。事実そのように幾度か足を運んで、色褪せぬ朱を思い出すのだから。祈りは続いている、あの跳んだ夜からずっと――きっとまた出会えるまで。その為にはこの声がもう少しうたえるようにならないとと思う訳はあるけれど。包帯は取れたものの、まだガーゼで覆われて傷の残る首元は黒いハイネックで隠されている。さわさわと風に揺れる黒髪が額に掛かったのを避けて、どこかから聞こえてくる旋律に気が付いた。良く知る音は自分がうたう調べだから、現実の自分の歌を知っている人ならば口遊んでもおかしくはない――と、途中までは思っていたからそっと耳を澄ませるだけだった。けれどつたない調べは、夢でだけうたった少し違う旋律に変わったから。双眸を見開いて、音の先を探す。その旋律を教えたのはただひとりだけ――)……ッ(旋律が途切れる。その先にいたのは間違いなく、彼女だった。幼子の頭を腹部に乗せて、こちらを見ている瞳と視線が合わさる。夢と同じ、いいや夢よりも鮮やかな。唇が震えて、微かな音さえ忘れてしまったかのよう。けれど夢での呼び名に、音を思い出したような心地を覚えれば次の瞬間には足がベンチに向かって駆けていた。伸ばした両手はそっと彼女の頬を掬い上げるようにして、その表情、その色を確かめんとする。すべらかな肌へ触れることが叶ったなら、そのまま彼女を見つめてゆるりと表情を変えるだろう。)……もう少し、ちゃんとうたえるようになってから探そうと思ってたんだけどな。ジュンの方が、見つけてくれるのはやかったね。(震わす喉から漏れる声は、掠れてはいないけれど夢よりもずっと小さく。けれど夢よりももっと確かな音で、歓喜に震えて。)
青嵐雅月 2020/02/27 (Thu) 00:57 No.15
(世良が目を覚ましたのは、自室の寝台の上。ファンタスマゴリアにおっこちたあの日から換算してたったの一日後のことだった。まず無断欠勤してしまった職場に平謝りに行かなければ、と慌てて支度を始めた瞳に飛び込んだ日付に時間を止められて。久しぶりに見た家族の表情は、再会を祝うよりずっと、挙動不審な世良の様子を訝しんでいた。その日、世良はお弁当を作り損ねた。──それからだ。月に二~三度という頻度で週末に公園をうろつくようになったのは。現実の彼もファンタスマゴリアに居た時のように花園に住んでいるわけじゃないのに、花を好いているかさえ分からないのに、何処にいるかも分からないのに、娘の散歩がてらと理由を付けて色んな花畑に訪れた。無料から有料の植物園まで、移動できる範囲を転々と。見たことはあるけど名前の知らない花、をいくつも覚えた。ダリアはあったりなかったり、まちまちだ。だがボール咲きとポンポン咲きの違いはサイズだと知った。 人影があればそっと顰めてしまう歌声は、その旋律は子守歌にはすこし似合わないかもしれない。けれどこれが唯一、あの日々が夢ではなかったと教えてくれるものだ。すう、と寝息が聞こえ始めた汗ばむ額から指を離して、吹き抜けた風で散らばる自身の髪を耳へと掛けた。伏せていた瞼が持ち上がるとき、瞳に映るのが焦がれた姿と知っていればもう少し気合いを入れて歌ったのに。)ぁ……っあ、 うそ、ほ っんとに、(辛うじて声になるのは意味のない言葉だ。まるで声を失ったのは彼よりも世良の方なんじゃないかと、そう思ってしまうくらいに舌が絡まった。腹の上に娘を抱えている手前立ち上がれなくて及び腰になりながら、「エセル、あなたなの」と確かめるようにぴんと指先を伸ばした。世良の頬に触れる手の、甲、腕を辿り、ハイネックを飛んで彼の頬に触れる。その顔を、瞳を、しっかりと確認しておきたくて。背後に見える噴水の飛沫の物足りなさ、静かな花々も気にならないくらい、視線が彼から動いてくれない。)あなた、歌手なんてしらなかった……髪も黒かったんだ。(夢の中で触れたのと同様に、それ以上に指先から伝わる熱や肌の質感はリアルだ。それに控えめな声。すこし視線を落とせば如何にも手術跡を隠すようなハイネック。細く吸い込んだ空気で肺が苦しくなってから、震える声は喜びに満ちた。)声……。大丈夫、だったんだね……よかった……っ。 もう話していいの? 出歩いたり、 それから、うた……うたえるようになるの?(あいたかった。また逢えると信じて跳び込んだ月だったけれど、本当に逢えるだなんて期待しないようにしていたから。下唇を食んで堪えたのは、たぶん涙とかそういうもの。飲み込んだら喉がごろと鳴った。)
世良閏 2020/02/28 (Fri) 01:31 No.27
(夢から覚めて、うたはもうずっと声に出してうたっていたい。きっとファンタスマゴリアでのあの夜がいちばん最後だ。それからはずっと、旋律をイメージしながら唇を動かすだけの音のないうたをうたっていた。それはこの声がちゃんとうたえるかどうかが怖かったからでもあるし、最初に聞いてもらうのは彼女が良いと、そう思っていたからかもしれない。花を見る時には一番に、赤い色を探すようになった。その次には、中でも一番彼女の朱に近い色を無意識に追いかける。ダリアがあれば特に、なんて。まだ一つ、やっと手術を終えたところだ。発声は今のところ問題はないが、まだ傷がふさがりきっていないからどれだけ声が出せるとか、響きに違和感はないかとか、再発がないかだって慎重に病院に通ってみていかなければいけなくて不確かなことばかりだった。けれど消えてしまいたいと願ったときよりはずっと、心は軽くて――その旋律を聞いて、姿を目にしたらそれさえも吹き飛ぶような、羽の生えたようなここち。)っふ、はは、……ジュンの方が、喋れなくなったみたい。(途切れ途切れの言葉にちょっと笑ってしまいながら、眦がゆるりと柔らかに下がる。一緒に眉も下がればおかしくて、確かめるような仕草にこくりとひとつ頷いた。エセルは確かに、自分の名前だ。ファンタスマゴリアの西の花園でうたう、記憶と共に色が抜け落ちた白薔薇の名前。でも今は、ちゃんと色を取り戻していると思う。彼女のおかげで。)うたってたら、いつの間にかそうなってただけだよ。髪は……そうだね、現実に戻ったら、ちゃんと色があった。(自分にもこんなに色があったのだって、改めて知ったような気分。辿られた先の頬は、少し緩やかに笑みの形を作っているのがきっと指先からも伝わるだろう。少し下げれば、まだ傷跡を隠す白いガーゼがそこにある。震えた喉がちょっと痛い気がするのは、きっと傷の所為だ。ちょっと胸が苦しいのも、嬉しさの所為。そうに違いない。)……なんとか、声帯は無事だった。 話すのは、少しなら。まだそんなに大きな声も出せないけど、前みたいにごろごろした違和感はなくなったよ。ちょっと、まだ痛いけど。 病院には通ってるけど、退院は出来たし…… うたは、実はまだうたってないんだ。(ちょっと怖くて、と眉を下げて、片手をするりと彼女の頬から離せば自分の頬にある彼女の手に重ね、するりとハイネック越しに自分の喉へと導いた。少しだけ、あの夜みたいだなと思いながら。)……あいたかった。だから、いちばん最初に、ジュンに聞いて欲しいと思ってて……だからもう少ししてからって考えてたのに。(微かな震えは、ガーゼと衣服越しにも伝わるだろうか。確かにこの声がここにあること、跳び込んだ月の先に在るものがこれだったと、背を押してくれた彼女に伝えるようにして、瞳が三日月のように細くなる。)……ね、あっちにいた時より、うまくうたえないかもしれない。声もまだ全然でないけど、きいてくれる?(子守歌にも満たないへたくそなうたになっても、君のためにうたうから。まるではじめてうたを聞いてもらう子供のように問いかける。もしも頷いて貰えたなら、へたくそだったらいっしょにうたってねと、そんな風に続けながら淡く開いた唇が、夢から覚めてはじめて音に旋律をのせて震わせるだろう。あの夜うたった、約束にもにたうたを。)
青嵐雅月 2020/02/28 (Fri) 23:27 No.37
(緩んだ眦を認めればやはり彼に違いなくて、柔らかに吹き抜ける風がどこからか花の香りを運んで連れてきているよう。決壊したダムのようにばらばらとあふれ出す感情が、あれもこれもと喉を押し上げてくるものだからその中から言葉を選び出すのが難しくて、継ぎ接ぎだらけの陳腐な台詞の出来上がり。今の今まで口遊んでいたはずの旋律さえポンと弾けて消えてしまった。)それは、だって、…………ほんとは全部、わたしが作り上げた都合のいい夢だったんじゃないか、って……思いかけてた。だから現実にいる筈なのに、いま、夢をみてるみたい。(それともこれもまた夢の続きなのだろうか。ファンタスマゴリアでないことは確実だけれど、都合よく出来過ぎている気がして。だが指先に伝わる感触は決して夢のように朧気なそれではない。「エセル」と呼んだ世良の声に頷き返してくれる彼もまた、現実の存在だ。鮮やかに色付いた彼はどこか見慣れぬ雰囲気だが、そわそわと落ち着かない心地なのは彼の風貌の所為だけじゃない。腹に凭れ掛かる高めの体温より、彼が触れる頬があつかった。身動ぎに目覚めたのかと案ずるも、すう、と一際大きな寝息が耳朶を撫ぜた。この公園から程近くには大きな病院があったな、と思い至ったのは彼の台詞を聞いてから。彼の声を聞いたのが偶然世良であったように、此度の再会もまた偶然なのだろう。それとも偶然が重なればそれはもう必然だって、だれかの言葉を引用してもいいのだろうか、)すごい。 がんばったね、……ほんとに。がんばった。(歌手生命を脅かす魔の手から逃れようとすることは、きっと世良が想像するよりもずっと心身を苦しめたに違いない。なにを言ってもいまは価値の薄い言葉に成り果ててしまいそうで、ほんとに、よかった、そればかりだった。ひゅう、と狭まった喉奥へと空気を吸い込んだのは、彼の手に導かれて触れたハイネック越しにもガーゼの感触がやけにリアルだったから。戸惑うように逃げかけた指先が逡巡ののちにそっと喉元にとどまって、震えを甘受した。)あいたかった、……わたしも。ずっとあいたかったから……なんだか信じられないくらい。青嵐雅月が本名? それとも芸名とか、(世良の中ではしっかり、エセルとしての彼が確立されている。本名にしろ何にしろ彼には違いないのだが、口馴染みはどうだろう。伸ばしていた手をそっと戻して、「うん」と頷いた。たぶんそれ以上の言葉は必要なくて、まだ少し痛いという喉を案じる瞳だけがそっと唇を見守る。ゆるゆると紡がれはじめた旋律は間違いなく音を捉えて、か弱い中にも確かなものを感じさせるような、そんなぬくもりがあった。引き戻した手を娘の額に触れさせて、彼の声にだけ耳を傾ければより顕著だ。こみ上げてくるものはきっとよろこび。口元が綻び、音無き唇が彼に合わせて歌詞だけを追いかけた。緩やかに首を振ったのは、まさかへたくそだなんて言っているわけじゃなくて。)また聴けた。……思ってたよりずっとすてき。こんなに間近で聴けるなんて、役得だな。(ファンがみたら泣いて羨ましがりそうだ。かく言う世良の眦も、ひそかに潤み始めているくらいだから。)
世良閏 2020/02/29 (Sat) 22:25 No.47
(夢のような場所だった。事実、夢だったのかもしれないとさえ思う。けれど確かにあの夢が、ファンタスマゴリアがあったからこそ今自分はここに立てている。どんな綺麗な言葉でも、心に届かなければ意味がない。どんなに綺麗にうたっても、咲いても、響かなければ感動なんてできはしない。だからただ装飾された音よりも、継ぎ接ぎだらけでも懸命に伝えてくれようとする音の方が何倍も嬉しい。あの世界で、今も、彼女が伝えてくれる音こそが男には魔法たり得たように。)その夢に、俺は背を押されてここまで来たんだよ。(触れられない夢ではなく、ここにいるのだと伝えるようにちょっとだけ指先に力を籠める。覚めて泡のように消えてしまうことなどない。確かに現実として今、出会っていること。夢じゃないのだと、色を取り戻した男が笑う。色を忘れたエセルとしてではなく、はじめて会う君。そういえばはじめましてがもうひとり、彼女とともにいるのだと思い出したのはその身動ぎあってのこと。だってそれまでは正直、彼女のことしか目に入っていなかったから。ふっくりと丸い頬を見下げて、この子がと思うのはファンタスマゴリアで彼女の娘のことを聞く機会もあったから。瞳の色は分からないけれど、目元なんかはなんとなく彼女に似ているような気がして、後で撫でても良いかと問いかけようと思った。小さなお姫さまへの挨拶が本日に叶うかはさておくとして。もう少しなんて思っていても、きっと今、こうして出会ったのがすべて。偶然とか運命とかの名前を付けて呼ぶよりもただ君を、君だから無意識に呼んだんだと。)……うん。(がんばったねと、ただその一言でつんと目の奥が熱くなった。君がいたからがんばれた。君にうたいたかったから跳び込めた。この声を、失わずに済んだ。耐えるようにして少し眉を寄せたあと、大丈夫だったのだと笑って見せる。現実は優しいばかりではない、それは今も変わらないけれど――ガーゼの下の傷が教えてくれる。痛みを堪えたその先に、恐怖ばかりに足を竦ませていては知れないものがあったのだと。導いた指先は、離れようとすればそうも出来ただろう。けれど逃げずにこの響きを、微かな震えを受け止めてくれる彼女だからこそ今、エセルではなく青嵐雅月が笑えている。)よかった。……実はね、誰って言われたら、ちょっとどうしようかと思ってた。 うん、青嵐雅月が俺の名前。……そっか、はじめまして、だね。(彼女が知っているのは、エセルという自分だ。どちらも同じ男であるから概ね変わりはないだろうけれど、環境が違えば、或いは呼び名が違えば見え方や印象も変わるのかもしれない。それに現実で出会ったふたりはいま、“はじめまして”だから。改めて告げた挨拶は少しくすぐったいまま、少し不器用な風に頬を緩めた。きっと笑い方は、エセルの方が上手だっただろう。――頷きを得られれば、見つめる瞳に“だいじょうぶ”を同じ瞳で告げた後にくちびるが淡く開いた。張るような声はまだ出せない。強弱も緩急も、ずっと抑えたうただろう。それこそ鼻歌に近いようなゆるやかさと言っても過言ではない。でも震わせた喉は確かに唇が言葉の形を紡いで音を、うたを響かせる。全然じょうずじゃない、けれどこころをこめたうた。歌詞を追いかける彼女の唇を見れば、一緒にうたってくれたらいいのにと淡い笑みが顔ばせに浮かんだ。)……ありがと。 これから、もっとうたいたいんだ。どこまでうたえるようになるかは、まだわからない喉だけど……別に歌手なんて形じゃなくたっていい。 きみのために、たくさんうたいたい。(役得という彼女に、そんなものではないと緩く首を振るけれど。不格好なうたにすてきと言ってくれる彼女にだから、もっと聴いて欲しいと思う。彼女の好きな歌を一から百まで、ううんもっと。うたいたい。うたわせてくれるのでしょう、と、確認するように覗き込んだ瞳にはきっとどこかほっとして、けれど嬉しそうな自分の顔がうつりこんでいた。)
青嵐雅月 2020/03/01 (Sun) 23:17 No.63
(面映ゆいとは、たぶん、今みたいな気持ちのことを言うのだろう。内側から唇の端を噛み締めてみる。舌の先でなぞってみればへこみが感じられるほどに。彼の為になれたのならばもう、それでよかった。他の誰でもない世良が彼に呼ばれて、向かった夢の世界で、彼の背中を押すことが出来ていたのなら。それはあの時同じ場に居た世良にしか出来なかったことなのだろうと、そう思えるから。必要とされることはいつだって心地が良い。喉の奥がくるしくて痛みを伴い始めれば、それが涙を堪えている所為だとそう間を置かずわかるだろう。力の籠る指先。色彩に溢れた笑み。いまは寝息を立てる小さな生命には彼のうたを何度も流して聴かせたから、安心する音だと認識するはず。スマホから人が飛び出してきたなんて思うのかもしれない。ぱち、と瞼をひらいた第一声を想像すれば、すこし面白かった。つきつきする目の奥の痛みを堪えてふたりぼっちとひとり、現実のくせに出来過ぎた夢のような今日にいる。ガーゼの下に隠された傷痕が何より彼の今を突き付けて、不安定な未来を映し出してゆく。かすれる声も、どこまで回復するかも、再発の可能性も、何もかも未来でしか分からぬこと。それでもあのままファンタスマゴリアに居たのでは永遠に知れぬ未来だった。)ほんとはあなたの名前を知ってから、調べたの。すこしだけね。青嵐雅月がエセルと同じ顔をしていたから、おどろいた。……同じ人なのにね。 ……青嵐さん。わたし、世良閏って言うの。ちょっとだけ似てると思わない?(青嵐と世良が。何でもない共通点未満を口にして、小さく笑う。はじめまして、の挨拶をするのはこれで二度目。だから夢の中みたいに不審がって胡乱な視線を投げたりはしない。彼の唇を追うように振れ動いた世良の唇から、ふ、と細長い息がひとつ、終わりがけには途切れ途切れに吐き出された。右手の指先を自身の額に触れさせて、指や主根部は目元を覆い隠す。隠し切れない口元がくにゃりと歪むのは、笑うか泣くかで表情筋が喧嘩をしているからに違いなかった。彼の言葉を都合のいいようにとらえて、勘違いしてしまいそうになる。その上勘違いじゃないかもしれないなんて、期待してしまいそうになる。)わた、しの。……ためって、 …………二~三日に一曲? それとも、毎日?(どちらにしたって逢えない時間も恋しくなってしまうのに。覗き込むような彼の仕草が指の隙間から見えれば、恐る恐ると指を横にすべらせる。世良が否を唱えることなどこれっぽっちも案じていないような、そんな表情があった。そんな目で見られては堪らなくなる。月に連れて行ったあとは? どうしたらいい。ずっとずっと歌わせて? それからは、)──……あなたのこと、好きになってもいいかな。 こんなにされて、わたし、好きにならない自信がないの……。(だってもうどの惑星の春も見終わってしまって、こんなにも彼のことばかり好ましく思うのに。だめだと言われても遅い。覗き込む彼の瞳の中央には、いよいよ頬に涙の線を走らせた女がいる。押し殺した期待に震える掌が彼の頬に触れるか、あるいは袖口を掴むなどして、無言のままに乞うのは純白のすべてだ。ゆるして。うたって。手をとって。それともキスをして。──Once upon a time in、その先をあなたにして。)
世良閏 2020/03/03 (Tue) 03:54 No.75
(こころは、かたちのないものだから形を与えてあげないと伝わらない。エセルも青嵐も特別な魔法は使えないし気の利いた言葉だって得意ではないけれど、夢がどんなものだったかと語ることはできた。背を押した手があったからこそ、月の消えるまっくらな夜に飛び込めたこと。その手の持ち主が、自分が呼んだのが彼女だということ。彼女で良かったと思っていること。足りない何かを埋めるのは、何でも良かったわけじゃない。埋めてくれたのが彼女のくれたものだったから、今現実に色を伴った男が再び笑むことが叶ったのだと。痛みの先に在るものが必ずしも無音を奏でることではないと、知っていながらも踏み出せなかった未来だ。まだまだ、願いまではずっと不安定だけれど失うことのなかった今。思ったよりもずっと、優しいばかりではなくとも息苦しくなかったのは目の前で落涙を堪えてくれている彼女のおかげ。彼女と出会った夢には、寝息を立てている小さな天使はいなかった。だからこれは夢の先にある現実。傷痕の痛み、物言わぬ花、伴奏には少し足りない噴水の水音や風のささやき、そのすべてが証明してくれる飛び込んだ月の先。変わらぬ日々ではなく未知の未来がある、俺が呼んで君が導いてくれた今日。)おんなじ顔かあ。どっちも俺だから、それはそうだろうけど……閏のほうが、きっとよく知ってるよ。 ほんとだ、ちょっと似てる。(薄っぺらいプロフィールよりも、エセルを知る彼女の方が男の事を良く知っている。この、情けなさや弱さも含めて。ちょっとした音の類似を聞けば、確かにと目尻に皺が出来た。共通点に満たずとも、似ていると言われればそれがどんな些細なことでも嬉しさに変わる。二度目のはじめましては一度目に比べると随分と穏やかで、ちょっとこそばゆかった。そんな気持ちも、まだかすかにしか震わせられない喉から、うたに込めて。)毎日がいいな。……毎日、君が好きだよってうたいたい。(雲に隠れたみたいに見えなくなってしまった花顔へ、まるで月を探すみたいにしてそっと指先が額に触れていた指先を剥がそうとする。顔を見せてと、扉をノックするみたいに幾度か触れて離れてを繰り返し、覗き込むように鍵を開けてもらえるのを待てば横へすべる指に引き戸だったのかな、なんて。問いかける声に悩むことがなかったのは、ずっとずっとうたいたかったから。二、三日じゃきっと足りない。毎日だって、きっと音が溢れて仕方ないと思う。だって今でさえ、次をうたいたくてたまらない。)俺はもう、好きだよ。閏のことが好き。 閏も俺のことを好きになってくれたら、きっと誰よりしあわせなうたがうたえそう。(好きになってもいいかな、なんて。問いかけてみたいのは自分の方だ。情けないばかりの歌うたい、その自覚はあるけれどもう、君の色が瞼の裏から離れなくなってしまったから。月から降ってきた君に、男は月に連れて行ってもらった。だから今度は、このうたで俺が君を月に連れて行こう。うつくしいものなのだと知らせよう。花弁のようなすべらかな頬を伝った露の跡を、指先が丁寧に拭って微笑む。震える掌が頬に触れれば擦り寄るように少し頭を傾けて、その指先を黒髪が擽っただろう。ファンタスマゴリアでは抜け落ちた白だった――けれど今に思えばそれは、すべてに染まれる純白だったのかもしれない。頬に触れる掌を包むようにしてこの手を重ねて、花が綻ぶようにはにかんで誘う。)今度は俺が、君を月に連れて行くよ。(うたって。手をとって。微笑んで、キスをして。――淡い光が縁取る純白へ、俺だけのうるうを。飾るのは奇跡ではなく、夢かなうしあわせと約束しよう。)
青嵐雅月 2020/03/06 (Fri) 22:27 No.87
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