Mome Wonderland


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(さよならワンダーランド)
(夢の宵から呼び起こされて、幾許かの時が過ぎた。幾許か、それはたったの一日のことかもしれないし、一ヶ月、あるいはそれ以上だったかもしれない。暖冬と早春の境目に迷いながら、ネイルの根本が浮いてくるたび何度塗り直すことになっただろう。風がぬくみを覚え始めて、目頭がむずむず痛痒くなってくれば、それでようやく後者の訪れを知覚したかもしれない。傷ひとつ、痣ひとつ残らなかった素肌が汗ばむようになれば夏、それすら追い越して風に身震いを促されるようになれば秋。いずれにせよ時計の針は進んでいた。待ちぼうけするばかりで、また周囲に置いてけぼりを食らうのは御免だから、そのうち昼間はグレースーツに身を包み就職活動に走り回るようにもなるだろう。そして夜は――夢でもうつつでも変わらぬショコラブラウンをアップスタイルに纏め上げ、スリットの入ったロング丈の赤いノースリーブドレスで着飾って、今日も店先で手を振っている。)ええ、きちんと就職しようかと思って。決まり次第"ここ"はやめてしまうでしょうから、もしかしたら、お会いできるのは今晩で最後になるかもしれませんわね?(バスト一面に縫い付けられたシルバーのスパンコールが、惜しみなく解放された白い胸元を際立たせる。まだ辛うじて誤魔化しの利いたうつくしさを装いながらも、「若作り」と店の新人キャストから陰口が聞こえ始めたことにも当然気が付いていた。春先にまたひとつ歳を取れば、店で一番若い嬢との年齢差は十歳近くにもなる。今正に彼女からイジワルを言われた常連客ですら、残念そうにはしながらも、「ルカちゃんも年貢の納め時かあ」と苦笑する始末だ。 でも、別に、さみしくはなかった。不思議なほど受け容れていた。)アフターは遠慮させていただきますけれど、同伴ならお付き合いいたしますわ。就活するにもお金が掛かるの。是非ご協力くださいませね。(おどけるように小首を傾げたのを幕切れの合図に、客人の背を見送る。見慣れすぎた光景。ネオン街は平日、休日を問わず賑わっている。ダスティーブルーの大判ストールを肩に掛け直し、客人の背が豆粒ほどにちいさくなり、やがて見えなくなるまでその場を動かなかった。できるだけ店先に留まりたがって、客人とは別の、いっとう大切な殿方の姿が雑踏から今にも現れることを待ち焦がれている。 十センチのヒールに支えられた踵のじん、という痛みが、舞踏会の夜を思い起こさせる。風邪を引いて病院を受診すれば、薬や消毒の匂いにいたく安堵することになるだろう。街中で青いフードを被った長駆を目にするたび、もしかしてと期待してしまうことだって。毎日、毎日、会いたくて仕方なかった。会いたくて会いたくてぼちぼち震え出しちゃうかもしれない。――簪が自然にするりと外れて、収束点を失ったロングヘアが背中へと散らばる。今宵は、何かを予感させる夜だった。雲間から覗いた細い月が、仄かにあおいふたつの人影を浮き彫りにしてくれるような。何かの始まりを予感させる、そういう夜だ。だから、もう少し店先で、”ここ”で立ち竦んでいてみよう。)
吉本成果 2020/02/27 (Thu) 11:35 No.20
(脳天を直接揺さぶるアラーム音で目が覚めたが、枕元の携帯を見ると男を叩き起こしたのは目覚まし時計ではなく上司からの電話だった。重い半身を起こしながら携帯を耳元に当てると同時、唾まで飛んできそうな怒号に上手く回らない頭と口で応答し、気が付くとネクタイを締めてラッシュ時間帯を些か過ぎた電車に揺られていた。黒い前髪と瞳が窓ガラスに反射し、片手で吊革に捕まる男を狐につままれたような顔で見つめ返してくる。まさに骨の髄まで染みついた社畜精神の賜物。安物のビジネススーツは棒切れのような痩身にわざとらしいほど馴染み、反対に最後の瞬間まで繋ぎ止めていた筈の温もりは指先から遠かった。あの熱帯夜のごとく潤んだ眼差しや、甘い声色で呼ばう福音の響きを思い出そうとするたびに、男を生かそうがするがごとく脈打つ心の臓だけが、夢が夢ではない事を主張するのだった。――その夜。もとい時刻は午前5時を過ぎていたが、ようやっと一日の業務を終えた男の携帯の検索欄に、二つのキーワード群が打ち込まれる。一つ目は「ブラック企業 辞め方」、そして二つ目は「Mome Wonderland」。)

はい。……はい、有難うございます。お世話になりました。(人々が往来する繁華街の路地裏に入り、携帯を耳に当てたまま何度も頭を下げた。一瞬わけもなく躊躇ってから通話終了ボタンをタップすると、自ずと安堵の塊が口から漏れた。夜の暗がりに発光する液晶画面を見下ろす。今しがたの電話の相手は退職代行サービスの人間だ。かつて此処に骨を埋める事になるのだろうと諦念半分の覚悟を決め込んでいた会社は、たった数度のコンタクトで穏便に、拍子抜けするほどすんなりと辞める事が出来た。再び表通りの雑踏に紛れ込む足は雲の上を歩いているかのように現実味が無く、されども向かう先に迷いは無い。道順を検索する事もしなかった。これまでに何度も同じ場所を訪れては、あと一歩のところで躊躇したり、目的の人物とすれ違ったりして、結局一人で引き返す夜を繰り返していたからだ。毎日毎夜、“夢”に見るほど、あの紫水晶に焦がれ続けた。しかし現実の彼女を迎えに行く前に、まずは自分が変わらなければならないと知った。そのために一ヵ月もの月日を要したうえ、転職活動はこれからという現状を思えば完璧な清算には未だ程遠いのだが。目を覚ました日の夜に迎えに行くという約束を反故にしたせいで、彼女にはとっくに愛想を尽かされているかもしれない。そもそも現実の彼女が男を憶えているかどうかすら確証が無い。不安が爪先に乗れば足取りは鈍るものの、絶対に足は止めないと決めていた。 やがてインターネットで何度も見た店名が視界に入れば、歩きながら胸ポケットからステンレス製の名刺ケースを取り出す。蓋を開けて中から一枚引き抜き、再び顔を上げた瞬間。足も呼吸も、世界の時間も止まった。艶やかな衣装に身を包み、誰かを待つようにして店の前に佇んでいたのは、見間違えようもなく男の心を埋めてくれた“胡蝶”だった。)……ルカ様……。(脳内で組み立てた段階を何もかもすっ飛ばし、実に一月ぶりの福音が唇の隙間から零れ落ちる。以前より大分薄くなった隈の上で、漆黒の双眸が暫し瞬きを忘れる。開きっぱなしの名刺ケースが掌から滑り落ち、十枚ほど残っていた“用済み”の名刺のうちの何枚かが春一番に攫われて相手の元へ飛んでいく。三月某日、23時半のネオン街。春の安穏とは無縁の夜に、チェシャ猫が笑ったような三日月が青白く浮かび上がっていた。)
羽山園聖人 2020/02/28 (Fri) 02:34 No.28
(ぬるい春一番が吹き抜けると、ひととき目を眇めて、漫ろな片手でほつれ髪を押さえる。横顔を、名刺らしきちいさな長方形が数枚、ひゅっと掠めていった――刹那。ひとり勝手に右から左へ、左から右へと流れていく可動式のショーウィンドウを眺めていた紫水晶が、とある一点に吸い寄せられる。息が止まる。灯の河みたいなネオン街の往来の中に、たったひとりの存在を見留めて、瞳孔がきゅっと一瞬ちいさくなる。目頭から裂けてしまいそうなほど眼孔を丸め、呼吸を再開すると同時に、激しく鼓動が鳴り出した。)――ヨハ、ネ、さま……。(夢の中のワンダーランドで、まるで合言葉のように頻りに報せ合った福音。闌の宵の渦中でも、この名を呼ばう彼の声だけが、確かな輪郭を保ったまま胸を貫く。ぶるりと疼く感覚を抱きながら、彼女もまた彼の名を、別に意識して口吻に上らせたわけじゃない。ただ自然に呼応して口を突いた。”ルカ”も”ヨハネ”もほんとうの名前ではなかったけれど、彼からそう呼ばれるのも、彼のことをそう呼ぶのもいっとう気に入っていた。でも今は、別れ際に教わったほんとうも、この唇で丁寧に象りたい。)……、……聖人様……聖人、さん?(コンクリート製の段差スロープの上を、かつ、かつ、と尖った音を立てながら、鋭いヒールで踏み締める。ゆっくりと彼に近付く。皮肉でもなんでもなく、膝が震えて、一歩一歩気を付けていなければまた足首を捻ってしまいそうだった。)聖人さん。……聖人さん、(片腕に抱えていたクラッチバッグのことも忘れて、手探りで明かりを探すみたいに彼へ向かって両手を伸ばす。化粧品やらスマートフォンやらを詰め込んだ重みは、鈍く低い音を立てて足下に転がった。菖蒲色に塗り直された指先は、叶うならば彼の服の腰辺りをぎゅっと捕まえようとするだろう。夜遊びの街の真ん中で、自らが勤務する店の目の前で、人目も憚らず抱きつきにかかるほど若い度胸を持ち合わせていない自分が恨めしい。フリーハンドで描いた線のようにひしゃげた眉毛の下、なみなみと光沢を注いだヴァイオレットが彼を見上げる。)……お元気?(妙に他人行儀らしく聞こえてしまったかもしれない。)迷わなかった?(ここに来るまで、道には迷わなかった? 私に会いに行くか否か、躊躇して、迷うようなことはなかった? ふたつの訳合いを含んだ問い声が、唐突に、しかし静かに音を成す。もっと他に、もっと別の、気の利いた再会の文句で彼を出迎えられたら良かったのに。話したいことがたくさんあったはずなのに、台本まで考えてたくらいだったのに、いざ彼を前にすると、予め用意していた台詞なんてすべて霧散してしまう。わななく唇に触発されて、声音までもがいとけなく震えた。 ほんとうに彼だった。現実に存在する、羽山園聖人そのひとが、今、目の前に。また会えた。会いに来てくれた。青い髪も、赤い瞳もないけれど、見紛う余地もなく彼だった――喉の奥が熱くなる。)…………会いたかった。 会いたかったわ、一ヶ月も待たせてひどいわ、落ち目のキャバ嬢なんかやっぱりお嫌なのかと思った。(不貞腐れて可愛くない、甘ったれでどうしようもない、よりにもよってこんなふうにしか言えない。冗談めかした口つきで彼をいびり、泣き笑いのようなかんばせが黒い瞳の中に映りたがった。)
吉本成果 2020/02/28 (Fri) 05:14 No.30
(波打つショコラブラウンの髪。蠱惑的な美貌に、あどけなさと憂いを秘める顔ばせ。己を映ずる双眸の、色や形、そして眼差しの温度。艶やかな紅のドレスを除けば何もかも、却って幻かと疑るほどに、夢で出逢った姿と全く同じ光景が目の前にある。カメラがピントを手前に合わせるように、不意に背景が遠くぼやけ、店頭の照明に照らされた彼女だけが確かな輪郭を持って見えた。役割を失った手が身体の横に垂れ下がる。長らくその場に立ち尽くしていた気がするが、実際には僅か数秒の出来事であっただろう。通りを埋めつくす足並みが男を邪魔そうに避けていく事にも気付かない。)――ッ、 ……成果、さん……。(喉が震える。仮初の名前を呼ばれた刹那、歯車がカチリと噛み合ったように、或いは最後のピースが嵌ったように、彼女の存在も今宵の邂逅も現実である事を自然と受け容れた。噛み殺された吐息の代わりに、両目の縁に一粒ずつ水滴が盛り上がり、自身の重みに耐えかねて瞬きも無く零れ落ちていく。器の容量から溢れ出した感情は、このように液状となって身体から表出する事がある。そういう類の、自分でも零れている事に気が付かないほど無色透明な涙だ。 彼女に倣って福音を本当の呼び名に摺り寄せながら、一歩、足を踏み出した。二歩、三歩、不特定多数の往来から外れ、同じように此方に向かってくる彼女との距離を埋めていく。夜の街の片隅で向き合えば、恐らく男の知らない香りが再会の感動とは別の切なさを誘う。一つ目の問いかけに対して淡く頷いたのも束の間、後続の疑問符に矢庭に核心を突かれた心地がして、男の眉もまた頼りない八の字を描いた。)……迷いませんでした。その代わり、時間がかかってしまいましたが。(頭を振る仕草は弱々しい。全てをかなぐり捨てて飛び込んだ訳でもなければ、万全の準備を整えて赴いた訳でもない。中途半端な決断も意気地の無さも健在。しかし錆びた機械のようなぎこちない動きで、遠慮がちにも両腕を伸ばしたならば、思っていたより小柄に見える背中を一ヵ月越しに抱擁未満の淡さで包む事が叶うだろうか。男をなじる口吻のいとけなさが懐かしく愛おしい。零れた吐息は柔らかな笑気を孕んでいた。)申し訳ありません。何度か訪ねてはみたのですが、なかなか貴方に……成果さんに、会う事が出来なくて。会社から抜け出せない日も多く、このままではどうしようもないと、辞職届を出してまいりました。……これ以上は、私も待ちきれませんでしたから。(申し訳ございませんでした、って、「同じ過ちはもう二度と繰り返しません」って意味よ。この一ヵ月、舌に馴染みすぎた謝辞を口にするたび、自然と脳裏に過日の台詞が蘇った。氾濫するネオンの明度と彩度に比して、薄い口唇が象る微笑みは一見すると淡い。されども生気を吹き返した双眸に泣き笑いの表情を映したならば、再び口を開いて伝えよう。)会いたかったです。……とても。(都心の夜は更けども眠らず、居酒屋の客引きや途切れない雑踏が男女の会話を掻き消している。おもむろに腕を離し、ジャケットの袖を捲って無個性な腕時計で時間を確認した。「お仕事は何時までですか?」黒い視線を紫水晶に戻す。本日はお疲れでしょう。また日を改めて出直します。――喉元まで出かけた“気遣い”に、口を噤んで蓋をした。)……よろしければ、帰る前にお茶をしていきませんか。(瞬きにはにかみを忍ばせて差し出す。疑問のなりをした小さな誘い。)
羽山園聖人 2020/02/29 (Sat) 01:44 No.38
(聖人さん。成果さん。改められた呼称はまだふたりの間に馴染みきらず、呼んでも呼ばれてもどこかそわそわと浮き足立つ。夢のようなのに、夢ではない、多幸を含んだ浮遊感。熱情と名付けられた絵の具をそのまま溶かしたみたいなスカーレットを失くしても、たった一粒ずつ涙をはじき出した彼の双眸は、変わらず愛を報せてくれる。ちゃんと元気でいた、"迷わなかった"と、言葉よりも雄弁に唄う黒曜石。)……そう……、良かった……。(明滅する電飾看板の傍ら、ひょろりと細長く伸び上がる男のシルエットと、確かな凹凸を持ちながらも小柄な女のそれとが、どこか遠慮がちに寄り添い合うだろう。夜気に剥き出された背中を、誰に命じられるでもなく包み込んでくれる両腕が嬉しかった。いまだに恐る恐るという気配を孕んだぎこちなさすら、鼻の付け根がじんとするほど愛おしい。彼の細腰を捕まえながら、鎖骨の辺りへ甘えるように頬を摺り寄せたがった。)お店の中まで入ってきて、ご指名いただけたら良かったのに……以前にもお越しくださっていたの?(知らなかった。今日ばかりは、調子良くスーパーヒロインらしい勘が働いたと思っていたのに――意外そうに、ぱちぱちと上下の瞼を鳴らす。もっとも、お金でこの身と時間を買ってほしいわけじゃない。懇ろに片手を伸ばし、まだうっすらと彼の目元に陰影を挿す、隈の痕を撫でてやろうとする。)……お疲れ様。頑張ったわね。 迎えに来てくれて、ありがとう。(長く生え揃った睫毛が撓垂れ、とろけ落ちそうなほど微笑んだ。 待ってる間、不安にもなった。待たせている間、彼の方も不安だったろう。互いの心は信じられても、他信と自信は、違うのだ。自分に自信を持てないふたりはきっと、一ヶ月もの間、あなたに愛想を尽かされてしまったのではないかと、お揃いの不安と被害妄想を抱えてた。それがなんだか可笑しくって、そっくりそのまま返ってきた――と見せかけて、「とても」とおまけを付けてくれた――「会いたかった」に、うん、と首を竦めて甘いはにかみを棚引かせる。パールの光沢を孕んだ頬が、チークカラーより瑞々しい薄ピンク色に淡く染まる。はじめてデートに誘われたみたいに嬉しくて、)いやよ。(と、首を横に振った。)お預けはいや。"待て"もいや。お仕事が終わるまで、我慢なんかできそうにないもの。(聞き分けのない子どものように言い募って、つやつやと光るグロスの唇をこれ見よがしに尖らせてみせた。つよく引き寄せられることなくほどかれた腕が、物足りない。今宵はもう彼以外の殿方に微笑みかけようだなんて露ほども気乗りしない。クラッチバッグと、店先に散らばった数枚の名刺をてきぱきと拾い上げる。バッグには必要最低限の化粧道具、スマホと財布、名刺入れが収まっている。貴重品はすべてこの中だ。縦から見ても横から見てもキャバ嬢然としたドレス姿は難儀だけれど、)……抜け出しちゃう。ねえ、あとでちゃんとお店には連絡を入れるから。お願い、このままどこか行きましょう? どこへ行く? 連れて行って。(学生時代から、授業もバイトも一度だってサボったことはなかった。キャバクラで働き始めてからだって、万年人手不足のシフトにさんざ救いの手を差し伸べてきたのだ。だから今日くらい、ねえいいでしょう、駄々をこねるような仕草で、再び彼の服の裾を引こうとする。)
吉本成果 2020/02/29 (Sat) 03:57 No.39
はい、お店の前までは。指名……も、考えたのですが、……(盛大に脈打つ心臓の拍動が、頬を擦り寄せる彼女の耳にまで伝わるのではないかと錯覚する。骨ばった手で後頭部を抱きかかえるようにして撫ぜる。途中で気恥ずかしげに口ごもると、華やかなゴールドイエローに照らされた自動ドアを一瞥し「何と言って入ればいいのか分からなかったので……」と。夜遊びの経験値が皆無に等しい事実を早々に露呈した口唇が、なす術もなく短い真一文字に結ばれた。)っ……本当に……お待たせいたしました。成果さんが此処で待っていて下さって、本当によかった……。(双眸が撓む。小さく鼻を鳴らし、何処からともなく滲んだ水膜が再び虹彩の表面を濡らす。最後に泣いたのが何時だったかも思い出せないほど、どんな理不尽な仕打ちを受けても不感症のようにやり過ごしてきたのに。まるで制御装置が故障してしまったかのようだ。睫毛が震える。愛撫と慰労が入り混じった指先で目の下の柔らかい皮膚を撫でられると、心の弱い部分にまで触れられた心地がして、体の芯が痺れた。背骨が折れるほど強く抱き締められたら良かった。しかし実に奥手な男は、突き付けられた三音に微笑みを取り落とすばかりか、鳩が豆鉄砲を食ったような間抜け面で紫水晶を見返す事しか出来ない。彼女の返答は男の想像を裏切り、予想を軽々と上回っていった。落とし物を手際よく回収していく傍らで唖然として立ち尽くし、腕を引かれる感覚を合図にしてようやく思考が再稼働する。瞬き一つ分のタイムラグ。突然背中を押されたように爪先が飛び出す。必ず成功するという確信をも感じさせる声付き、斯様に甘えられて肯かない男などいる訳がない。)――はい。喜んで。(彼女以外に聞かれまいとするような声で囁き、歩を進めて彼女の隣に並ぶと、一瞬思案してから不器用に細い隻腕を差し出した。弱った風に眉尻を下げる。こういう時に何と声を掛ければいいのかも分からない。ワンダーランドに背を向けて、二人でネオンの海に飛び込んでいく。夜が深まるにつれ精彩を増していく喧騒と極彩の奔流が、スーツとドレス姿の男女を夜景の一部に変えていく。まさか二人がこの夜の街で誰よりも無辜な逢瀬の最中であるとはすれ違う人々は夢にも思わないに違いない。)まずは座ってお話ができる場所を探しましょう。……お聞きしたい事やお話したい事がたくさんあります。(人々のざわめきに掻き消されないよう軽く声を張った。同意が得られるならば行き先は深夜営業中の喫茶店か何処かのバーか、いずれにせよ連れ出す足は歓楽街の出口を目指している。懐から携帯を取り出し、片手で検索バーにキーワードを打ち込みながら。)好きなものや今楽しみにしている事、差し支えなければ……これまでの話も。一つずつ教えて下さい。明日のご予定は?(事によっては朝まで彼女を拘束したがる可能性を含有した質問。当の男は文意が孕む独占欲に気付かぬ様子で、返答を窺わんとして顔を上げる。瞬間、足が止まった。背後に光るネオンサインが彼女の輪郭を紫色に縁どって、まるで初めて出会った夜のように、)……っ、すみません。とても……綺麗だと、思ったものですから。(蚊の鳴くような声で自白して、逃走するように正面へ向き直る。肉の薄い顔が居酒屋の提灯にも引けを取らぬほど赤赤と火照った。)
羽山園聖人 2020/03/01 (Sun) 06:48 No.53
(青白い光害に晒された髪の表面を、大きな掌がバリアーのように覆い包んでくれる。ただそれだけのことで幸福を齎すことのできるひとなど、彼以外にいようはずもない。少しこもった香りのするスーツは晩稲らしく、夜遊びに慣れた男の胸で嗅ぐムスクより、よっぽど恋しくて仕方なかった。もごもご言ってる薄い口唇を見上げながら、ほんとうにいとしがるように目許を綻ばせた。)……可愛い。そういうところ、大好きよ。(物足りないから、もっと欲しくなる。もどかしいのにきもちいい。顎裏を撫でられる動物のように蕩けてしまう相貌は、いつかの誰かに少し似ていたかもしれない。その誰かさんの、天然樹脂に閉じ込められたみたいに定着した微笑みも、決して嫌いではなかったけれど――黒い瞳にこみ上げる涙の影へ、そっと触れたがった。うん、うん、と優しく相槌を挟むように撫でて、今まで彼がつらかった分、頑張ってきた分、全部私が褒めて、労わって報いてあげたい。拾い上げた名刺を、用なしと捨て置かずにクラッチバッグの中へと収める。バッグのストラップに手首を通し、青いストールを胸の前でゆるく結べば、ささやかな逃避行の準備は整った。ちょっと間の抜けた、はっという彼の表情。例に漏れず嫌いじゃない。片腕を差し出されれば、顔色を二段階くらい急に明らめ、飛び付くように両腕を巻き付けた。弱々しくて頼りない彼のことを、大喜びする子どものような無邪気さで見上げる。ヒールが踏み出す。ワンダーランドを後にする。下賤な風俗店、安い居酒屋や焼き肉屋のネオンサインが、煙った夜空にぎらぎらと輝いている――星なんて見えやしない世界でも、とびきりの絵本を開くみたいに胸が躍っていた。 流暢な彼の口つきに、「せっかちさん」と笑いかける。窘めるようでいて、まったく満更でもないふうに上擦った声。)一夜で全部済ませなきゃいけないって思ってるみたい。明日も明後日も、これからいつだってお会いできるんじゃないの? ……時間はたっぷりあるわ。(彼にとっての彼女はもう、一夜の夢をみせる胡蝶ではないのだ。そうやって言っておいて、「明日はお休み」といけしゃあしゃあ宣うのだから大概だった。自ら多くを望もうとしなかった彼が垣間見せる独占欲に、ぴりぴりと指先が甘く痺れる。 もっと寄り添ってしまおうかと、両腕を狭めようとした途端、ふ、と彼が足を止める。物理的に早足を封じられているピンヒールは、おかげで急な一時停止に難儀しない。驚いたのは寧ろ、改めて見上げた先にあった、煌々と燃えるかんばせのせい。目が皿になる。音を立てて心臓が引き絞られる。ぎゅん、と身も蓋もないような調子で、体中の血が一遍に喉元をせり上がっていく。)…………誘っているの?(今までだって何度も言ってくれていた「綺麗」が急に刺さった。顔が、真っ赤になる。)ホテル行く?(眼前に迫ったY字路の、左側を指差す。「……じ、冗談よ」 斜め下に顔を背け、突き出した人差し指を右側へと翻した。)たまにひとりでお酒を頂くバーがあるの。落ち着くお店よ。(つい口を突いて出た、これ以上ない”せっかちさん”ぶりと、下品で即物的な物言いに我ながら呆れた。内心、彼がどう思っているか気が気でない。ストール越しのちいさな肩が強張り、窺うような上目遣いがおずおずと彼を見る。穴があったら入りたいけれど、ワンダーランドに逆戻りはもうできない。)
吉本成果 2020/03/01 (Sun) 09:44 No.54
(自分からそうするように仕向けておいて、片腕にドレスの衣が擦れ、かのワンダーランドの星空にも引けを取らない輝きが男を映ずる瞬間、不意打ちに遭ったかのごとく瞠られた眦へ血色が集中する。異性を誘惑する風に造形された体躯は女性的な魅力を惜しげも無く協調するのに、男へ向けられる顔ばせは天真爛漫な少女のようですらあって、そのアンバランスさが男をこれ以上なく落ち着かない心地にさせるのだった。例えば怒号を浴びている時などとは全く別種の高鳴りを抱え、踏み出す一歩が密やかに逃避行の始まりを告げる。男自身も自覚に至らなかった性急さを指摘されれば、気恥ずかしげに唇を曲げて笑った。)……つい、失念しておりました。これからいつでも成果さんにお会いできる事が、未だに少し信じられないものですから。(などと釈明を重ねるものの、声色に乗るのは言葉通りの不信ではなく現実味を帯びない多幸感のような其れ。擽るような包容力によって孤独という名の鎧を順調に脱がされつつある男は、今や対彼女に限定して何処を突かれても急所だらけのようなものだった。互いに真っ赤な顔を見合わせれば、まるで地震でも起こったかのように双眸が露骨に揺らいだ。)誘っ…… そっ、そういう訳では……(両手を胸の前に上げ、頭を振りたてた次の瞬間、)!?!(声にならない驚きが明滅した。)…………は……、わ、わかりました……。(結局冗談だと知れれば、提灯を通し越して溶岩のように熱した顔面を指差された方角へ逸らす。背丈に比例した掌が口許どころか鼻先までを塞ぐようにして覆い、自分で自分が居た堪れないという風に一瞬目を伏せる。これでは中学生顔負けの耐性の低さを自ら露呈したも同然だ。もしこれが何処ぞの薬師であったら、喜び勇んでホテルどころかSutekiでMekurumeku活動をする倶楽部に直行していたに違いないのだが。心臓が内側からの圧迫に負けて今にも破裂しそうなほどだった。顔の下半分を覆っていた手で左胸を宥める風にして押さえながら、恐る恐る歩行を再開する。此方から目を合わせる勇気は持ち合わせていないものの、)……お酒は、よく飲まれる方ですか?(こそばゆい空気を換気せんとするような問いかけが数歩目にして落ちる。酒気を帯びた夜風が頬を舐めるようにして吹き抜けていく23時。却って目に悪いほどの強烈な光彩や騒音が、夜に群れるようにして路地の隅から隅まで犇めき合っている。本来、毳々しい歓楽街は得意ではない。されどもこの街で彼女が長らく息をしてきた事実を思えば、視界に淡い蛍光色のエフェクトがかかるように、猥雑な街並みも非日常的で悪くないもののように見えてくるのだった。しみじみとした嘆息が細く開いた裂け目から漏れ出る。)まだ成果さんについて殆ど何も知らないのに、貴方が好きだという事だけは分かっている。……不思議なものですね。(独白じみた台詞を差し出し、躊躇いがちに相手の横顔を一瞥した。それから再び前を見た。夜は長く、ピンヒールに合わせた歩みも至って緩やかなものだ。「……時間はたっぷりありますが、」不意に先の彼女の言葉をなぞった。)今夜は朝になるまで……(口を噤む。思い直したように顔を上げ、)朝になっても、成果さんの傍にいさせてほしいです。(無意識の底に埋もれていた願望を静かに掬い上げた。傍にいましょうと手を伸べる事は叶わずとも、小心者の男に出来る最大の賭け。街に溢れる電工看板の明かりのいずれかが、相手の側へ向けられた鼻先の赤さを照らし出す。)
羽山園聖人 2020/03/02 (Mon) 04:16 No.64
(冗談よ、を額面通り受け取る彼には、今までに接してきたどんな殿方よりも手を焼かされる。けれど、半分冗談、半分本気、左様な中途半端では御しきれない、煮え切らない態度のあなたすらも好き。翻弄されているのはもっぱら彼女のほうだった。加減を知らずにぽんぽんしすぎたパフチークみたいに染まる、彼の横顔を見上げる。肌が薄いから熱伝導率も高いのかもしれない。触れて確かめたい、そこがどれほど熱いのか。痩せて尖った肘の関節を、もっとつよく胸に引き寄せる。バネのような心臓が、肋骨を折りかねないほどこの身の内側で暴れているのを知ってほしい。再びゆっくりと動き出したヒールの足取りを褒めてあげたいほど、鼓動はひどく急いている。)もちろん。お店では毎日。でも、たまに余所で静かに飲むのも好きなの。……(酔狂なさざめきは長く尾を引いて、もう暫くの間、ふたりの後ろを付き纏うだろう。夜の街は深酒によく似てる。抜けるのには、時間が掛かるのだ。フラワーアクアリウムの中を泳ぐ金魚のようなドレスの裾が、酒臭い風に巻き上げられる。此の期に及んで考えていた。23時。26歳。終電を逃してもタクシーで帰ることができてしまう年齢。どうやったら、今宵、彼ともっと一緒にいられるだろう? ついさっき、自ら口にした窘め文句を省みる。そうだ、彼と過ごせる時間がこれからどんなにたっぷりあったとしても、だから今日ずっと一緒にいなくてもいい理由にはならない。 彼も同じことを考えていてくれたら……浅ましい熱願は、思いの外すんなりと拾い上げられたような気がした。ヒールの爪先がまた止まる。夜気のあわいにそっと溶かすような彼の声音が、性懲りもなく、煽ってくるものだから。不思議なものですね、じゃないわよ。紫水晶が、水洗いされたようにつやつやと潤む。)……~~っ、ねえ、やっぱり、誘っているのねっ? どうしてあなたって……、聖人さんって……、(言葉にならない心模様を、隻腕にしがみ付く体全部で訴えようとする。こんなにそばにいたくて、こんなに触りたくて変になってしまいそうなほどなのに、クリスマスソングのトナカイにも負けない鼻先にまた息が詰まる。止まる。思考が停止する。着々と夜風に冷まされつつあった頬の熱は、治りかけで油断していた風邪みたいにすぐぶり返して、悪化する。「…………分かったわ。」 急に眉を引き締めて、)今晩、泊めて。あなたの家に。(何が分かったのか? こんなことばっかりやっている気がする。自分がこんなにも欲望に忠実で、本能的に動ける人間だとは思っていなかった。時計の針がてっぺんを跨ごうという時刻になっても、繁華街沿いの大通りを行き交う車両は絶えない。非力そうな腕を片手でがっちりとホールドしたまま、ガードレールのそばまで連行しようとする。向かってくる"空車"の赤い表示灯へと、空いた片手を振りかざした。)……明日のご予定は?(直前の信号に捕まったタクシーは、一、二分もしない内に再び動き出し、ふたりの前へと停車するだろう。それまでに、彼が首を横に振る猶予はまだ残されている。残されているけれど。 先刻の彼の問い声をなぞりながら、濡れたシーツをかけるようにしっとりと、痩せた片腕にもうひとたび寄り添うことは叶うだろうか。ジャケットの肩口にショコラブラウンを擦り付けながら、瞳だけで、いとしい男を仰ぎたい。)朝になっても、そばにいさせてあげる。……いてほしいわ。抱き合って眠りたいの。キスがしたいの、お嫌? 聖人さんは……したくない?(ちりちりと熱い瞼を、猛毒色のアイシャドウが彩る。見つめ返してくれるなら、したたかな睫毛の一本一本がくらげの触手のように、彼の視線を絡め取って絶対に離さない。)
吉本成果 2020/03/02 (Mon) 15:28 No.68
(柔らかな感触が肘に押し付けられる。腰が砕けるような電流が身体に走り、膝が折れぬよう耐え忍ぶのに一瞬の硬直を要した。彼女は幾人もの男性を惑わす胡蝶。或いは夜を遊泳する艶やかな金魚。尾鰭を翻すような睫毛の揺らめきに心奪われる傍らで、同じように誘惑されてきたであろう男達に何の感情も抱かぬかといえば嘘になる。彼女が己に対し施してくれた“愛”を決して疑いはしないが、嫉妬に身を焦がし、焦燥を抱え、浅ましい独占欲を底に飼う胸中は、男という生き物のどうしようもない宿業なのだろう。)お酒に強いのですね。……、少し妬けてしまいます。(「ひとりで」お酒を飲む事がある、と他愛なく説明する口吻に、本当は密かに安堵していた。頑なに前を向き続ける唇が、迷い、躊躇い、そうして結局本音を吐露する。主語も目的語も削ぎ落とされた不親切な告白を相手がどう取ったかは分からない。先程も聞いた言葉が再び耳朶を揺らせば、やはり男の方もくっきりと目を見開いた。「いっ、いえ、そんなつもりでは……!」上擦る弁明。意中の異性を前にした男子中学生並みに下手糞な否が却って相手を傷つけかねない事にすら頭が回らない。逃げ場を無くした八の字眉は、何か得心したらしい彼女を前にして僅かに平素の様子を取り戻す。落ち着きかけて、数秒後、跳ね上がった。)いぇっ(無意識の発声は「家」の復唱か、単なる奇声か。上下の瞼を見開きすぎた勢いで眼球がすっ飛んでいきそうだ。今までも散々不格好な姿を晒してきたが、ここまでくると最早目も当てられない。何かを言おうとして石化したように口を開いた状態で挙げられた手の甲と空車のタクシーを交互に見やる。「……予定は、まだ、ありませんが、」切れ切れの日本語がこの期に及んで煮え切らない。まさかこうなるとは想定もしていなかったゆえ、拙宅が他人を招待できる状態であったか、棒立ちと化した脳内でワンルームマンションの見取り図を展開するのに忙しい。だが斯様に錯綜した意識すら、彼女が腕に寄り掛かり、此方を見上げる潤んだヴァイオレットと視線が合ってしまえば、目の奥が弾けるような衝動によってホワイトアウトを起こすのだ。)まさか、(あれほど優柔不断な態度をとっていたくせ、したくない?と反問を突きつけられた瞬間、驚くほど呆気なく喉奥から否定が転び出た。むきになったような響きが己の耳に入ると、軽く驚いた様子で両目を瞬かせる。そうして短い沈黙を挟んだ後、観念した風に唇を開き直し、酸素を吸った。)貴方に……触れたい、です。もっと。成果さんを、知りたいです。「これから」ではなく……今すぐに。(慣れない言語を口にするような拙さで、されどもしっとりとした熱を孕んだ低音が伝えた時、信号が赤から青へと変わり、二人の前に一台の車が停車した。目線で促して、音もなく開いた扉の中に乗り込み、運転手に自宅の住所を伝える。二人を乗せたタクシーは間もなく発車し、眠らぬ街を後にするだろう。ネオンの煌めきが見る見る離れていく。後部座席に窮屈そうに座る間、男は内心ひどく落ち着かない心地で一杯だった。彼女から話題を振られれば応じただろうが、そうでなければニュースを伝えるラジオの音声が車内に流れ続けた事だろう。数十分後、車は歓楽街の喧騒から遠く離れ、静まり返ったベッドタウンの一角で止まった。タクシーを降り、何処にでもありそうな、やや年季が入って見える三階建てのアパートに彼女を連れて入っていく。)……お入り下さい。何も無い家ですが。(一階の端の扉に鍵を差し込んで解錠すると、恐る恐るといった所作でゆっくりと扉を開き、彼女を玄関に通した。本当に何も無い家だ。シンクの片隅に置かれている綺麗に洗ったカップ麺の容器と、洗濯機の足元の籠に入れられたシャツの抜け殻だけが、此処に人間が住んでいる事を示唆している。扉を内側からふたたび施錠し、微かに床板を軋ませながら彼女に続いて家の中に入る。この家に自分以外の人間がいる事が不思議だった。壁際のスイッチを探り当て、廊下の電気を点ける。夢のようで夢ではない、小さな背中姿を目にした刹那、言葉にならない衝動が胸から溢れた。)――成果さん、(廊下の隅に鞄を置き放ち、再開の瞬間とは比べ物にならないほど強い力で彼女を抱き締めようとする。無理な我慢を重ねた結果ついに体内のウイルスが暴走し、高熱を患った病人のように、かつてないほど全身が熱い。)成果さん、好きです、愛しています、……(悩ましげに眉根を寄せ、熱情を込めて何度も何度も懇ろに囁いだ。伏せていた睫毛を持ち上げ、もしも眼差しがかち合う事があるのなら、考えるよりも先にその唇を奪い取らんとする。最初からずっとこうしたかった。人目を憚り押し殺してきた欲望を、今此処でぶちまけるかのように。)
羽山園聖人 2020/03/03 (Tue) 07:30 No.76
(ふっ、と、急に紐解かれた記憶の反芻が、耳元で囁く。舞踏会の夜。なんだかよく分からないワルツの音楽、彼女自身の声。『……妬けちゃうわ』 そう言った。彼の声が、具合の悪いスピーカーを介して再生したかのように、似た調子のセリフをなぞる。前後の脈絡をぶった切って、不格好に継ぎ接ぎされた彼のその思いが、かつての彼女と同じであったらいい。そうであってほしい。)…………少し?(ひとさじの憂慮が過ぎって、つややかな瞳の表面に、ぽつんとシロップを落としたような波状の揺らぎが生じる。急に不安げに、睫毛がふるりと震えた。捨て鉢になって夜の世界へ飛び込んだというのに、元来の生真面目さが災いして、風俗業にすらも結局手を抜けずにいた気がする。女の体は、男の手で磨かれることによって美しく孵化していくもので、蛹ですらなかった学生の時分には、彼女も地味で見栄えのしないトランプ兵の一員だったものだ。それでも今、トランプ兵から"女王"を経て、"アリス"の役割を果たしたなら、これからはたったひとり彼だけの、単なる女になりたい。おろおろと女心を踏みにじる男の純情が憎たらしく、反面、どうにかしてやりたいほど愛くるしい。思春期の男の子よりも素直に狼狽えていたかと思えば、低く吐き出される声音には、大人の男の艶めかしさがちらつく。意趣返しにあったような気がして、喉奥がきゅうっと引き攣る。悩ましく眉毛が撓るのを、見られてしまったらなんだか悔しくて、骨と皮だけのような彼の上腕へ額を押し当て隠そうとする。溺れる手が水を掻くように、再び彼の腕に両手でしがみついた。)うん、……私も。(あなたに触れたい。あなたを知りたい。小汚い緑色のタクシーがふたりの前に停車する。夜の歓楽街で繁忙期を駆けずり回る運転手は、睦み合う男女の姿になどまるで慣れっこの様子で、詮無く大通りを出発した。窮屈そうに折り畳まれた長い脚へ、ドレス越しの太腿を密着するほど寄り添わせる。電車の中の居眠りみたいに彼に凭れかかる。ラジオの音量をもっと上げてくれたらいいのに。心臓の音のほうがよほど際立つ空間。話したいこと、聞きたいこと、たくさんあるはずなのに、何も言えなくて。伏し目がちの睫毛のあわいから、車窓を横切っていくとりどりの光条をただ、ただ眺める。ネオンサインの賑わいを背後に抜き去り数十分、彼が住む家は、世界上にたったいま忽然と現れたようにそこに佇んでいた。)……ぉ、(開け放たれた扉を前に、今更、生娘のように声を上擦らせた。彼があんまり、緊張した面持ちでいるものだから。)お邪魔します……。(玄関脇に、脱いだヒールを揃えて置く。薄暗い廊下に一歩足を踏み入れると、数時間ぶりに着陸した踵と土踏まずがびりびりと痺れた。電気が点され、部屋の中を見回そうとすると、文字通り一瞥で済んでしまう。 彼の言う通り、ほんとうに何もない部屋だった。無性にさみしくなった。ここで、ひとりで、死んでいるみたいに生きている彼の姿を想像したくなくて、名前を呼ばれるよりも先にそのひとを振り返っていた。狭い肩幅に辛うじて引っかかっていた青いストールが、布擦れの音を鳴らしながら足下へ滑り落ちる。――「ま、」さとさん。わななくソプラノは、一音で途切れた。細長いシルエットに、再会の時より更に十センチも縮んだ体躯がすっぽりと塗り潰される。不意に抱き締められた、よりも、ひどく熱いものに突如覆い包まれた感覚の方が先に立つ刹那。瞠られるヴァイオレット、ふたたび床に転がるクラッチバッグ。しかして、はっと息を呑んだ拍子に、焼けつくほどの熱情までもれなく吸い込んでしまった。)ま、聖人さ……ん、っ……(逆上せたように、目が回る。目の奥から蟀谷まで貫かれたようにじいんとして、瞼を閉じ損ねた。悶えるように双眸を細め、熱くて蕩けてしまいそうなくちづけを受けた瞬間、キスの応じ方すらも忘れていた。麻薬を直接流し込まれたような陶酔感と、多幸感。溺れる人間が藁を求めて縋るような腕つきが、彼の肩口を跨ぎ、首の後ろへと回されようとする。そして思う。ようやく目を瞑る。ぐん、と背伸びして、自らもつよく唇を押し当てようとする。ーー即物的に彼を求めてしまうのは、それがもっとも伝わりやすい愛情表現のひとつだからだ。わざとぺらっぺらに生きてきたようなふたりに、小難しいギブ&テイクや、気の利いた駆け引きなど端から無謀だったのかもしれない。ふたりとも不器用で、口下手で、もはや、互いに依存し合って、傍から見てだめなような関係に思われても構わないとすら思った。三年B組の担任教師曰く、”人”という字は互いに支え合ってできているらしいので。夜の蝶でも他人の犬でもない、欲望に忠実な浅ましい人間同士で、四苦八苦しながらふたりで生きていきたい。しとりと重みを持った睫毛を、そっと持ち上げる。限界まで伸び上がった爪先立ちをそのままに、すぐにでもまたくちづけられる距離感を固辞しながら言う。)――あなたのことまだ何も知らないのに、あなたを愛してるってことだけは分かるわ。……不思議なものね?(頬がやわらかく欠け落ちてしまいそうに笑んで、何度もついばむように、ちゅ、ちゅ、と音を立ててまたキスをしたい。ひとつひとつの傷跡に、きれいな絆創膏を丁寧に貼っていってあげるみたいに、上唇の先っぽ、下唇の真ん中、左右の口角まで全部。ふたりはお互いのこと、存外何も知らない。鏡の森で、紺色の表紙の絵本の中で、第三者の手によって浮き彫りにされたその上澄みを、掬い取ってちろりと舐めただけに過ぎない。愛するひととの死別、裏切り、不治の病、そんな大層なものではなくて、きっと他人からすれば取るに足らないこと。ボキッと折れて、ぽっきり砕けて真っ二つに折れた心の芯を、彼と彼女のふたりで交換し合ったのだと思う。どうしてこんなにあなたが好きなのか、愛しているのか説明したいのに、上手にできない……、夜の蝶でも、まして、女王様でもなんでもない不甲斐ないかんばせがそこにある。困り果てたようなはにかみと、リップグロスの剥がれた唇。)……私……ほんとうは、あなたに見つめられるだけで、名前を呼んでもらえるだけでもいいのよ。きっと。だってそうすると、愛情を感じるの。そばにいると心が安らぐの。あなたと一緒なら、また頑張れる気がするの……でもやっぱり、そんなにすぐには無理!ってなって結局落ち込んでたら、その時はまた抱き締めてキスして。 私も、あなたがつらい時にはおんなじようにするわ。(殺風景な空間に、寝物語を口ずさむような静かな声が吸収されていく。立春を過ぎたとは言え、家人を迎えたばかりの部屋に蟠る冷気は薄地のドレスに堪えた。彼の熱い胸に抱かれていなければ、とても辛抱できないほど。脹脛を攣りそうで、ようやくと首根から両腕をほどいたとしても、すぐにまた細く華奢な男の腰つきに巻き付こうとするだろう。言葉を尽くすのに限界を感じたら、今度は行動で伝えんとして。)私のことも、あなたのことも、話したいことも聞きたいことも、たくさんあって……明日が、これからが、すっごく楽しみよ。…………でも、”今すぐ”できる、私の幸せにし方もあるの。ご存知?(薄い胸板に片掌を這わせながら、ヒントを出さずに待ってみる。実はもうほんとうに腰が砕けてしまいそうなので、抱き上げて、と、彼のひ弱な両腕を頼るのは無茶なお話だろうか。ひどい傾斜で擡げた首と、背伸びしすぎた爪先が痛い。消えてしまった脚の傷を取り返したようで、痛いのが嬉しかった。彼と出会ったことで齎された傷なら、痛みなら愛せると思った。就活に躓いたくらいでいつまでも引き摺っていた、心のちいさな擦り傷が、じんと消毒液を沁み込ませたみたいにまたいずれ性懲りもなく痛んだとしても。痛いから、夢じゃない、って思える。 今なら機嫌がいいから、たとえこのタイミングで彼が「存じ上げません」と言ってすっとぼけたとしたって、ギリギリ許してあげられるかもしれない。けれど、)聖人さん、好きよ。……愛してるわ。(さよなら、ワンダーランド。ねえ、もっと、いちばん現実的な痛みを頂戴。)
吉本成果 2020/03/05 (Thu) 01:31 No.81
(薄手のストールが強付いた袖に触れ合い、囁きに似た幽かな衣擦れの音を生んだ。不安の波が伝播し、ぶるりと鳥肌を伴う身震いがスーツの中身を襲う。)とても、妬けます。(見透かす目遣いから逃れるように視線を伏せ、打ち明ける声量で遠慮と虚栄が入り交じった副詞を置換した。彼女の言葉や仕草一つ一つが、何層にも分かたれた男の心の扉をその都度解錠し、核心部にするりと入り込んでいくようだった。タクシーの硬質な座面の上で膝を折りながら、口唇を緩く結び、余韻に浸るようにも車窓の外を眺め遣る。太腿の接着部は火傷するほど熱く、黙りこくった車内に何かを予感させる鼓動がふたつきり五月蝿い。一方で、段々と明度を失いゆく夜の街並みに、安堵しつつも世界から隔離されていくような物寂しさを覚えた。 彼女の手によって、死んだように生きていた身体に命を吹き込まれた今、分かった事がある。モノのように思考停止して他人の要求に唯唯諾諾と従い続ける生き方は、ひたすらに虚しく絶望的で、楽だった。何物も望まない限り、打ちのめされる事も、身分不相応な十字架を背負わされる事も無い。叶わぬ切望にこの身を押し潰されるくらいなら、いっその事自分自身を綺麗でも醜悪でもない無機物のような存在だと思い込みたがったのかもしれない。しかし今宵、全身を焦がすほど烈しい熱を再び知って。所詮は男も、欲望と本能に抗えぬ浅ましい動物にしか過ぎないのだと思い知る。)……っ、成果さ、ん……(重みに耐えかねたように大きく撓垂れた体勢で、男の声は雨のごとく上から降り注いだだろう。先の男の発言をなぞる囁きにぐしゃりと眦を崩す。今度は相手の側から、一箇所ごと彼女の感触を教え込まれるような接吻を受けるたび、喘ぐように眉根を摺り寄せ、行き場を求めた熱望がいっそう強く華奢な躯体を抱きたがった。睫毛の先端が触れ合いそうなほどの至近距離で、鏡合わせの面差しを見合わせる。)――はい、……必ず。貴方が挫けそうになるたびに、私が貴方のそばに参ります。貴方が再び歩き出せるようになるまで、ずっと一緒にいます。だから、成果さんも……私から離れないで下さい。私には、成果さんが必要です。お願いです、ずっと……(冷えた廊下で熱孕む呼気を絡ませ合えば、まるで互いを雁字搦めにするように彼女の肩口へと両腕を映し、その顔ばせを己の胸に閉じ込めようとした。ジャケットの襟元の内側で無地のネクタイが曲がっている。どうせ明日は用無しのスーツだ。使い物にならなくなったとしても構わない。時刻はそろそろ日付の変わり目に差し掛かっている頃だろう足裏から這い上がる冷気が男の意識を夜へと連れ戻す。しかし次の瞬間、白い手指が胸元へ滑り込めば、彼女を見下ろす目色が再び恍惚を纏って塗り替わるのだった。)…………、(接吻の回数だけ紅色の花が咲いた口許を無言の内にわななかせた。繰り返し瞬き、固唾を飲んで、胸の中の花顔を見下ろした。男の脳裏を過ったものが“正解”なのか、目遣いだけで確認する風に。「存じ上げません」と頭を振って、一夜の“痛み分け”を、幸福という名の十字架の共有を、ぐずぐずと先延ばしにする事は容易だ。――だがしかし。床に横たわるクラッチバッグとストール。まるで脱皮のように彼女の身体から剥がれ落ちた其れらと、どんな夜空よりも綺麗な二つの瞳。そして何より、駄目押しのように愛をささめく紅唇に、背筋がぞくりと粟立つ。)成果さん……、(細い指で艶やかな髪をすい、と掬い上げる。優柔不断な唇ばかりこの期に及んで躊躇う素振りを見せ、だが其れも最終的には覚悟を決めた風に引き締められた。)私も、愛しています。(そう返したならば、両手を彼女の腕の下に回し、小柄な肢体を抱き上げる事が叶うだろうか。生命の形をした質量が決して頑丈とはいえない身にのしかかる。ただ失礼ながら想像していたほど重くもなかった。緩慢な足取りで彼女を部屋に連れて行こう。ベッドや机、テレビ、加湿器、備え付けのクローゼットに至るまで、あらゆる家具や家電が一人用の大きさで構成された一部屋。ワンダーランドにはあまりにも程遠い質素な風景。だが其処かしこに家主の存在がひっそりと息衝いている。布団が無造作に折り畳まれたベッドの上へ彼女を下ろし、改めて、観念したように息を吐く。電気を消したままの室内。開けっ放しの扉から漏れる廊下の光だけが、出口に背を向ける形で傍らに佇む男の背を仄かに照らしていた。「成果さん、」再び名前を呼ぶ。)……かわいいです。成果さん。(三日前に爪を切ったきりで、端に薄らと白い三日月が出来た指先を伸ばし、薄闇に紛れる髪を搔き上げる風にして頬を撫でた。次いで男も皺が寄ったシーツの上へ乗り上げたなら、深い海底で酸素を分け与えるように、もう一度時間をかけて唇を重ね合わせよう。事実は小説よりも奇なり。夢のようなこの夜が決して夢ではない事を、これから男が知らしめる。 泥沼のような恋愛だと、そう思われても構わない。見つめ合って、名前を呼んで、ずっと傍にいて。この私が、貴方の望みを叶えましょう。)
羽山園聖人 2020/03/06 (Fri) 23:59 No.89
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