(薄手のストールが強付いた袖に触れ合い、囁きに似た幽かな衣擦れの音を生んだ。不安の波が伝播し、ぶるりと鳥肌を伴う身震いがスーツの中身を襲う。)とても、妬けます。(見透かす目遣いから逃れるように視線を伏せ、打ち明ける声量で遠慮と虚栄が入り交じった副詞を置換した。彼女の言葉や仕草一つ一つが、何層にも分かたれた男の心の扉をその都度解錠し、核心部にするりと入り込んでいくようだった。タクシーの硬質な座面の上で膝を折りながら、口唇を緩く結び、余韻に浸るようにも車窓の外を眺め遣る。太腿の接着部は火傷するほど熱く、黙りこくった車内に何かを予感させる鼓動がふたつきり五月蝿い。一方で、段々と明度を失いゆく夜の街並みに、安堵しつつも世界から隔離されていくような物寂しさを覚えた。 彼女の手によって、死んだように生きていた身体に命を吹き込まれた今、分かった事がある。モノのように思考停止して他人の要求に唯唯諾諾と従い続ける生き方は、ひたすらに虚しく絶望的で、楽だった。何物も望まない限り、打ちのめされる事も、身分不相応な十字架を背負わされる事も無い。叶わぬ切望にこの身を押し潰されるくらいなら、いっその事自分自身を綺麗でも醜悪でもない無機物のような存在だと思い込みたがったのかもしれない。しかし今宵、全身を焦がすほど烈しい熱を再び知って。所詮は男も、欲望と本能に抗えぬ浅ましい動物にしか過ぎないのだと思い知る。)……っ、成果さ、ん……(重みに耐えかねたように大きく撓垂れた体勢で、男の声は雨のごとく上から降り注いだだろう。先の男の発言をなぞる囁きにぐしゃりと眦を崩す。今度は相手の側から、一箇所ごと彼女の感触を教え込まれるような接吻を受けるたび、喘ぐように眉根を摺り寄せ、行き場を求めた熱望がいっそう強く華奢な躯体を抱きたがった。睫毛の先端が触れ合いそうなほどの至近距離で、鏡合わせの面差しを見合わせる。)――はい、……必ず。貴方が挫けそうになるたびに、私が貴方のそばに参ります。貴方が再び歩き出せるようになるまで、ずっと一緒にいます。だから、成果さんも……私から離れないで下さい。私には、成果さんが必要です。お願いです、ずっと……(冷えた廊下で熱孕む呼気を絡ませ合えば、まるで互いを雁字搦めにするように彼女の肩口へと両腕を映し、その顔ばせを己の胸に閉じ込めようとした。ジャケットの襟元の内側で無地のネクタイが曲がっている。どうせ明日は用無しのスーツだ。使い物にならなくなったとしても構わない。時刻はそろそろ日付の変わり目に差し掛かっている頃だろう足裏から這い上がる冷気が男の意識を夜へと連れ戻す。しかし次の瞬間、白い手指が胸元へ滑り込めば、彼女を見下ろす目色が再び恍惚を纏って塗り替わるのだった。)…………、(接吻の回数だけ紅色の花が咲いた口許を無言の内にわななかせた。繰り返し瞬き、固唾を飲んで、胸の中の花顔を見下ろした。男の脳裏を過ったものが“正解”なのか、目遣いだけで確認する風に。「存じ上げません」と頭を振って、一夜の“痛み分け”を、幸福という名の十字架の共有を、ぐずぐずと先延ばしにする事は容易だ。――だがしかし。床に横たわるクラッチバッグとストール。まるで脱皮のように彼女の身体から剥がれ落ちた其れらと、どんな夜空よりも綺麗な二つの瞳。そして何より、駄目押しのように愛をささめく紅唇に、背筋がぞくりと粟立つ。)成果さん……、(細い指で艶やかな髪をすい、と掬い上げる。優柔不断な唇ばかりこの期に及んで躊躇う素振りを見せ、だが其れも最終的には覚悟を決めた風に引き締められた。)私も、愛しています。(そう返したならば、両手を彼女の腕の下に回し、小柄な肢体を抱き上げる事が叶うだろうか。生命の形をした質量が決して頑丈とはいえない身にのしかかる。ただ失礼ながら想像していたほど重くもなかった。緩慢な足取りで彼女を部屋に連れて行こう。ベッドや机、テレビ、加湿器、備え付けのクローゼットに至るまで、あらゆる家具や家電が一人用の大きさで構成された一部屋。ワンダーランドにはあまりにも程遠い質素な風景。だが其処かしこに家主の存在がひっそりと息衝いている。布団が無造作に折り畳まれたベッドの上へ彼女を下ろし、改めて、観念したように息を吐く。電気を消したままの室内。開けっ放しの扉から漏れる廊下の光だけが、出口に背を向ける形で傍らに佇む男の背を仄かに照らしていた。「成果さん、」再び名前を呼ぶ。)……かわいいです。成果さん。(三日前に爪を切ったきりで、端に薄らと白い三日月が出来た指先を伸ばし、薄闇に紛れる髪を搔き上げる風にして頬を撫でた。次いで男も皺が寄ったシーツの上へ乗り上げたなら、深い海底で酸素を分け与えるように、もう一度時間をかけて唇を重ね合わせよう。事実は小説よりも奇なり。夢のようなこの夜が決して夢ではない事を、これから男が知らしめる。 泥沼のような恋愛だと、そう思われても構わない。見つめ合って、名前を呼んで、ずっと傍にいて。この私が、貴方の望みを叶えましょう。)
羽山園聖人〆 2020/03/06 (Fri) 23:59 No.89