(何という事はない、男が贈った言葉は、半ば男自身に言い聞かせるものでもあったのだ。二人はジグソーパズルの凹と凸、ではない。寧ろ凹と凹、同じ欠乏を抱えた似たもの同士の二人だから、互いの心の隙間に何が嵌るかも本当は最初から知っている。もとい、彼女にその事を教えられた。まるで心がスポンジ状になったよう。一筋の川のごとく頬を流れ落ちる水が中核にまで染み込み、男はくしゃりと目尻を崩して破顔する。)私を幸せにする力を持っているのは、貴女の方です。(先ほどまでの彼女がそうしていたように掌で片側の頬を包み、きめ細かい肌を濡らす其れを優しく拭う風にして撫ぜようとした。湿った感触と火照る体温は今宵触れたものの中で最も現実味を帯びていて、何かが腑に落ちると同時に愛おしくなる。)貴女の声で名前を呼ばれるたびに、ひどく安堵しました。貴女の傍にいる事を許可されている心地がして……成果様が叱って下さったおかげで、もう何も恐れる事なく貴女を愛する事ができます。ですから、私は幸せです。(口角をふっくらと持ち上げ、懇ろな口付きで福音を重ねていく。覚えたての言葉を継ぎ接ぎしたかのように拙い告白。一方で、声音は相変わらず低いのに、今にも浮かび上がりそうな多幸感に満ち満ちた。 男の“女王”となるのは、男と同じくらい生真面目で強情な彼女でなければならなかった。彼女の言葉が男にとって「上滑り」したものであったなら、錯綜した心模様をぶちまける事すら恐らく叶わなかっただろう。ブレーキの故障した涙腺が愛おしく、まどかな笑声が唇の端から零れ落ちる。男の心の隙間もまた、彼女の言葉や仕草、表情、注がれた愛情によっていつの間にか埋め尽くされていた。三日月の真下、溶けそうなほど柔らかな笑み顔を受け、色が乗った頬を一層緩ませる。)……私の名前は、羽山園、聖人。と、いいます。(誰かの口調に似て、一語一語をじっくりと刷り込むような言い方になった。教えられた居場所の名前を口の中で呟く。)目が覚めたら、その日の夜に貴女を迎えに参りましょう。逢えなければ、次の夜も、その次の夜も。必ず迎えに参りますから、どうかその時までお待ち下さい。(“待て”も得意だが、結論を提示するまでに時間はかからなかった。確約と同時に恭しく頭を垂れる“ヨハネ”の名残りが、意味ありげな沈黙に誘われるかのごとく睫毛を羽ばたかせる。指先が力を伝えれば、心臓を直接掴まれたように鼓動が跳ねる。放たれたのは命令未満の四文字。持ち上がった踵の分だけ近付く瞳。結局ここでも彼女にリードされる始末だ。情けなさ、動揺、躊躇、されども意気地の無い感情に思考を支配されるのは一瞬の事。勇気を振り絞らんとする風に、眉根をひとたび引き締めて、)――成果様。(承知いたしました、とは返さなかった。代わりに絡めた五指を握り返したなら、もう片手を相手の背中に回しながら頭を低め、シャワーを待ち受ける花のような唇に向かって接吻を落とそう。ただ数秒、形を確かめ合うような純真な口付け。されど伏せた瞼の裏側が熱く濡れるほどに、全身が幸福に包まれた。接吻の後、改めてウェディングドレスのような純白に身を包んだ彼女を見下ろす。まるで彼女自身が発光しているかのように眩く、嬉しすぎて怖いくらいに綺麗だと思った。細められた双眸に万感の思いが宿る。)私も、貴女を愛しています。 また“明日”。(時は満ちた。最後の瞬間まで手を繋いだまま、二人の男女が時計台の頂上から飛び立つだろう。あえかな月明かりと裏腹に、夢の終焉は強烈な光の海によって塗り潰される。眠りに就くように目を閉じた。もうじき迎える“明日”に、よい報せが訪れる事を願いながら。)
ヨハネ〆 2020/02/27 (Thu) 10:07 No.88