Mome Wonderland


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(ヨハネの福音)
(ナイトメアの不在に気が付いたのは呼吸がようやく元の深度と周期を取り戻した後の事だった。森の中はまるで廃墟のように静かだった。草が茂る地面と湿った夜気が火照った身体に冷たかった。顔を上げるれば、アーチ状の額縁を彷彿とさせる出口から、仄かに青みを帯びた夜の空間が浮かび上がっていた。)…………。(自分の身体が思い通りに動く事を確認するように、時間をかけて少しずつ身を起こしていく。立った瞬間に地盤が音を立てて崩壊してしまうのではないかという空想が脳裏を過ったが、幸いにも森は男が歩き出した後も見知った姿を維持していた。湧き水の傍に屈み込み、両手で水を掬って渇いた喉を潤す。それからフードを外し顔を洗う。苦みを含んだ硬水は入念に砕いたガラスのような触感と味がした。此処が夢の世界であるとは思えないほどにあらゆるものの質感がリアリティを帯びていた。或いは夢を夢と知覚したからこそ、わざわざそのように感じられるのか。ローブの袖で顔面を無造作に拭い、再び立ち上がる。出口を振り返ってから其方に爪先を向けるまで、さらに暫しの時間を要した。静的なメディチナの森から出た途端に最後の夜が動き出すであろう事を思うと、気後れがして中々足が進まなかった。だが行かなくてはならない。苦痛や悲しみに苛まれない代わりに温度も喜びも存在しない孤独の安らぎより、一夜かぎりだとしても二人の夢を見せてくれるヴァイオレットの眼差しが、身を焦がすほど恋しかったから。)ルカ様……ルカ様、……(森を抜けると星屑と三日月の輪郭が明度を増していた。一面中均されたように人気の無い夜道を一人で行く。歩調は段々と加速し、ついに靴底が地を強く蹴り出した。着慣れた筈のローブが重く感じる。耐えかねた風に鞄ごと路傍に脱ぎ捨て、現実と同じ痩せぎすの身体で月を追いかけるようにして走った。男の心臓は何物かに突き動かされるがごとく激しい脈動を打っていた。鼓動は会いたいと念じた回数であり、彼女に関する記憶そのものが男の体内を巡る血液であった。)……っ、……、ルカ、さま。…………ルカ様……。(されども貧相な体力はすぐ尽きる。本来の弱者たる己を知覚すればなおのこと。程なくして枯れ枝の関節のような膝頭が軋み始め、口内に血の味が滲んだ。二酸化炭素を小刻みに吐き出す顔が歪み、ついに足を止める。野生のアイリスが咲き広がる花畑の中心。膝に手をつき、その場で根を張られたように立ち尽くす。ただ一つ、凍える唇だけが譫言のように福音を繰り返していた。)
ヨハネ 2020/02/19 (Wed) 20:19 No.7
(たとえば少女漫画、たとえば恋愛ドラマのように、彼が今一番ほしがっている言葉をすんなりと差し出して、どこにいても飛んでいけるスーパーヒロインが"アリス"だったら良かったのにね。"現実"はそうもいかないらしい。彼女がまず向かったのは赤の女王の城だった。タイムリミットを明日に控え、用事を済ませるのなら当然ここを訪れるだろうと踏んだのだ。結果は空振り、あの夜のダンスホールにも中庭にも足を運んだけれど、彼の姿はどこにもない。そこで彼女を手助けしてくれたのは、王城の前庭に茂る、物言う花々たちだった。「あら、あなたの好い人はいらしてないわよぉ」「まあ、今日も真っ黒いお洋服なのね!」)っお、お花さん方、あの……っヨハネさま、どこへいらっしゃるか……ご、ご存知ない……っ?(単純な運動による汗と、切迫した心因性の冷や汗とが前髪の付け根で混ざる。喘ぐ呼吸は火焔のように喉をひりつかせた。花々は眉毛を顰めるみたいにめしべをくねらせて、「どうしたの?」「何かあったの?」「まずはメディチナの森を目指して行ってごらんなさい」「途中で城下町の住人たちにも聞いてみるといいわ」と口々に彼女を導いてくれる。ありがとう、と告げた声は、ほとんど音にならずに夜の遠鳴りに掻き消えた。しかし花々は得心がいったように萼からかくりと頷いて、また弾かれたように走り出した彼女の背に、月下美人の花弁をひとひら吹き付ける。黒いワンピースが、裾から華奢な白いドレスのトレーンに変わる。気にも留めずに彼女は走る。城下町。噴水広場で天体観測をしていた巻き毛の天使、ひとり気ままに散歩中の、尻尾が自慢の少年ウサギ。風船好きのあの女の子はなんと、ボーイフレンドと夜のデートの真っ最中だった。みんなが彼の行きそうな場所を教えてくれる。毎日欠かさず続けてきた”ご挨拶”も、いつの間にか、対価でも何でもない、彼との純粋な”約束”に変わっていたのだ。 斯くして、彼女は辿り着く。アイリスの咲き占める花畑は、遠くまで薄紫色に煙るよう。ルカ様。ルカ様。何度も何度も報せる声音が耳を打つ。石ころが坂道のてっぺんから転げ落ちるみたいに、前につんのめりそうになりながらもまた駆け出す。)っ、ヨハネさまっ…… ヨハネ様!(赤い瞳は俯いて、表情も窺えない。あなたがどんな顔をして私を見るのかも分からない。でも、大きな体躯が、ちいさく、今にもぺしゃんと潰れてしまいそうに見えた。腕を伸ばす。抱き締めようとする。 彼に会っても、罪悪感が邪魔をして、もう容易には触れられないかもしれないと覚悟していた。無駄だった。項垂れる青髪を掻き抱くように胸に引き寄せたくて、細かいことも小難しいことも何も考えてなんかいられなかった。熱い塊に咽喉を塞がれているような、呻くにも似た声を絞り出す。)ヨハネ様、ごめんなさい……っ、ごめんなさい、ごめんなさい、わ、私、何も知らないで、偉ぶって馬鹿みたい、あなたを、隷属させてしまった……ごめんなさい、ごめんなさいっ……!!
ルカ 2020/02/19 (Wed) 21:45 No.11
(幾度となく果報をもたらしてきた筈の呼び声も、その場に受け取る者がいなければ届かない手紙と同じようなものだ。ルカ様、ルカ様、ルカ様。必死に応答を手繰ろうとする音が、葉先から滴る雫のように落下しては吸い込まれていく。冷たい夜の酸素を吸い、其れを音韻に変えるたびに、両肩が震える風に上下する。暫くの間、誰にも拾い上げられない名前を呼び続けた。まるでこの微かな篝火を絶やせば二度と彼女に会えなくなるという風に、いつしか呼ばう行為が男の呼吸そのものになっていた。 そしてその時は訪れる。青紫色の地面に向き合う形で俯いていた男の聴覚に、その報せはまるで流星のように届いた。くっきりと見開いた双眸を正面に上向け、開きかけた口は視界に飛び込んだ光景によりひとたび声を失う。はっと短い休符を落とし、)ルカ様――(辛うじて喉奥から絞り出した響きともども、相手の胸の中に閉じ込められる事となった。心拍が一度のみ鮮烈な衝撃と驚愕を轟かせ、しかし次の瞬間には全身が麻薬めいた多幸感に包まれる。気が付くと両腕は空気を泳ぎ、縋り付くがごとく彼女の背中に手を回していた。舞踏会以来の抱擁。一度目は罪の感触がしたが、此度は弱り果てた肉体が蘇生させられるかのような安堵すら覚える。月明りの下、アイリスの海で抱き合う男女は再会のワンシーンに相応しく美しかった。だがそれも痛ましい懺悔が耳朶を叩くまでの話。一拍遅れて自責の意味するところを悟れば夢から醒めたように顔を上げ、素早い所作で華奢な背中から手を離す。)……知ったのですか、真実を。一体どこで?(一瞬にして色を失った顔貌が月光に青白く照らされる。逃げ出した手の行き場を探して片手でシャツの襟ぐりを掴み、呆然と花顔を見下ろした。失意と恐怖が着実に男の胸裏を侵食していく。彼女に男の本当の出自を知られた以上、己は福音を届ける聖人ではいられない。人生に絶望したただの憐れな男は彼女の夢のような瞳にどのように映っているのだろう。これ以上見合っていると皮膚の下に眠る青痣を見抜かれるような気がして、遠くを見遣る振りをして顔を逸らす。怯える目色は前髪の下に隠れるだろうが、視線から身を守るフードは此処に来る道程で脱ぎ捨ててしまった。悔いるように青髪のカーテンをくしゃりと搔き乱す。薬師であった己を象徴するアイテムがなければ、其処に立つのは焦がれた眼差しもまともに受け止められない小心者に過ぎないのだ。 しかしその一方で、他人に奉仕する事を己の存在理由とする“ヨハネ”の人格が己の中に内在するのも恐らく事実。ローブを脱いでも完全には消えぬ薬の匂いのように。)……とにかく今は、ルカ様が元の世界に戻る方法を探しましょう。急がなければ、月が――(面持ちを改め、真剣味を帯びた眼差しで欠けた月を仰いだ。今や刻限の先に待つものは断頭台への誘いでは無く、二度と夢から抜け出せなくなる八方塞がりの末路。己自身は未だ“向こう”に戻る決心がつかないにしても、男の夢路に巻き込んだ彼女までを牢獄に引きずり込む訳にはいかないと。 否、実際のところ、幻滅しないでほしかったのだ。彼女が必要としてくれた男より、遥かに矮小で空虚な己の姿に。)
ヨハネ 2020/02/21 (Fri) 04:00 No.33
(シースルーレースの五分袖いっぱいに、憶えた体温を、匂いを、骨の形を抱き締める。落としかけたものを既の所で持ち直したような、急激な切迫と安堵。豊かな胸を突き破りそうなほど鼓動が鳴っていた。何度も家の施錠を確かめるにも似て、もうひとたび両腕の力を増す。確と彼を抱き締め直せば、シュガーコーティングしたみたいな白い背中に縋っていてくれる、痩せた、かわいい手の感触がある。単純明快なよろこびに、瞼の裏には容易く涙がこみ上げてくる。奥歯を噛む。堪える。きっと、彼女が泣けば彼は泣けない。)…………女王陛下が……。(たとえ、ほどかれた手に、色のない相貌に、一方的な拒絶を妄想したとしても。行き場を失った両腕は、ひととき中空をうろうろと彷徨う。懺悔の余韻は冷たく、唇が凍えるようにあおく震えた。赦してはもらえない? 幻滅したの? もう私は、あなたを虐げた人間のひとりに過ぎない? 哀願的な目で彼を見上げる。こんな時でさえ彼女の目は些かの媚を含んでいるだろう。夜の世界へ誘うような、奇しくも甘い街婦の目つき。視線は、交差しなかった。 でも、勝手に傷付いて身を引くのはもうやめる。)つれないふりしたって無駄よ。(いとしいスカーレットを隠してしまう、長い前髪へと手を伸ばす。振り払われたって何度も。)ヨハネ様、こっちを見て。……お願い、よ。(乱れた青髪を、指先で優しく梳いてやろうとする。叶えば、そのまま彼の片頬へと掌を滑らせるだろう。月”なんか”に奪われた彼の目を、私のものだと誇示するようにつよく引き寄せたがった。)……ずっと頑張り屋さんで、えらかったわね。疲れたでしょう。人一倍苦労してきたんだもの、少しくらい一休みしたって、なんにも恥ずかしいことじゃないわ。……私なんか、もう長いこと休みっぱなしよ。そっちの方がよっぽどだわ。(かんばせは笑うこともできず、はたまた泣くこともできず、瞳の奥の潤んだ底光だけが表情のすべてだった。胸に渦巻く焦燥は際限がない。こんなことを言う権利が彼女にあるか否か――それでも尚、蝶の標本を虫ピンでがっちりと固定するような眼差しで彼を見つめ続ける。その実、慄然として、手足が竦むような思いは、指先から彼へも伝わっていたかもしれない。)私があなたに幻滅したとでも思っているの? 愛してるとまで言ったのに? 股の緩そうな女の言葉なんか信じられない?(そこで初めて、ねめつけるような、哀しむような形に目つきが迂曲する。紫水晶の一面に細かなひびが入ったかのよう、瞳の表面が涙で白っぽく霞んでくる。いまだ彼の頬をこの手で包み込んだままいられたなら、飽き足らず、空いたもう片手も伸ばすだろう。両頬を支えて、絶対に目を逸らさないよう誘導したい。それが叶わないなら、頬に留まらず彼の腰でも、両腕でホールドして逃がさない。もう引く気は毛頭ない。)愛してるわ。(堪えて、堪えて、堪えたけれど、ひとつぶくらいは大目に見てほしい。小さな子どもが言い張るような、頑固で稚拙な口ぶりで宣言した瞬間。走って、走って、風に擦り切れて赤くなった頬の上を流れ落ちていった。「……私に何か言うことは?」 自らの主張を終え、次はあなたの番だと催促する。吊り上がった眉、ひん曲がった唇、裏腹に、私だってずっとずっと不安でいる。)
ルカ 2020/02/21 (Fri) 05:39 No.35
(暗幕の向こう側から仄白い影が接近するのが見えた。走って、恐らく悴んで、夜の冷気を纏った指。その爪先が男の前髪に触れた瞬間、まるで手負いの動物のように身を竦ませる。だがそれだけだ。青みがかった毛束の隙間からスカーレットが姿を現す。眩しがる風にも怯える風にも湾曲した其れは、一度ヴァイオレットの眼差しに絡め取られれば、意思とは無関係に丸々と面積を広めていく。 不可抗力だった。彼女の指先を振り払き、眼差しからも逃げ切るなど、この男に出来る筈が無かった。頬を撫でられ、艶を含んだ声で懇願されてしまえば、尚の事。)…………、……違います。私は……わたしは、決して貴方が恐ろしいわけではないのです……。(唇に馴染んだ一人称から三音目の「く」が抜け落ちた。触れた五指の表皮が微かに強張る感触。一つ一つ織り込んでいくような慰労の言葉は、掻き乱され荒廃した心の奥底に慈雨のごとく届き、だからこそ子供じみた否が口端から転び出た。右頬を支える手の甲の上から己の形を重ね合わせ、確かめる風に擦り寄せる。下向きの睫毛が切なく振動する玉響。実際のところ未だ整理が追い付いていないクローゼットから探し物を選び取るように、幾度も口許に戸惑いを過らせた後で。)……自分で確信が持てぬのです。今の私がどこまで“ヨハネ”で、どこまで元の自分なのか。何が本当で何が夢なのか、今この瞬間考え、感じている事すらも――こんなにも離しがたいのに!(主張と呼ぶにはあまりにも稚拙で冷静さを欠いた、あられもない叫喚が喉奥から迸った。単に重ねていただけの掌を、指と指が互い違いに噛み合う形に捕まえ直し、実在を確かめるかのように握り締める。同時に眼の底が鈍く光り、まるで彼女のひとしずくを追いかけるようにして零れ落ちた其れが二人の手を冷たく濡らしただろう。この涙は一体誰のものなのか。赤色の奥で二人の男の自我が鬩ぎ合う。混濁。眼差しばかり縫い留められたように身動ぎもしないまま。)私も愛しています――と、何の躊躇も無く言い返せたらよかった。全て思い出してから、見慣れたと思っていた世界の何もかもがまるで違う風に見えて……貴方の美しさだけが変わらない。それが却って恐ろしいのです。まだ夢から覚めきっていないんじゃないか、貴方自身が夢なのではないかと、思えてしまって……。(心のうねりに任せてとめどなく唇を動かし続ける。支離滅裂な自覚はあった。薄紫の大地。星屑をまぶした空。彼方に聳える王城のシルエット。真実を知った今、当然のように享受してきた其れらが弱った瞳には全て作り物めいて見える。ただひとつ。夜の海のような煌めきを乗せる紫色と、女性的な肢体を包む純白だけが、男の視界に息を呑むほど鮮やかだ。ひとたび目を伏せ、空気を吸って、同じ深さで吐く。肺の中身を一新し、改めて瞼を押し上げる。瞬きに合わせて第二第三の雫を落としながら、水彩絵の具が滲むように弱々しい微笑みを浮かべてみせた。)……ですが、ルカ様に幸せになっていただきたい気持ちだけは、確かに本物です。私に望まれる事が自分の望みだと言って下さった時、胸が震えるほど嬉しかったです。“ヨハネ”だけでなく、私自身も――生きてもいいのだと、救われた心地がいたしました。 今も同じです。ルカ様に喝を入れていただいたおかげで、私も目を逸らさずに向き合う事ができました。……ルカ様は私よりもよほど前を向いていらっしゃいます。ご自分を責める必要など、何処にもありませんよ。
ヨハネ 2020/02/22 (Sat) 05:40 No.44
(野ネズミのように怯えて傷付いた姿が、痛ましくも、この上なく愛おしかった。前髪の一本一本に神経が通っているみたいに、慎重に、誰よりも、何よりもやさしく触れる。そっと掻き分けたあわいから覗くスカーレットと出会うだけで、彼女の心はどうしようもない充足感に、幸せに満たされるのだということ。目だけで真心を表せる稀有なひと。彼自身は、それがどんなに尊いことか知らないのだろう。)……そう……そうね、分かるわ。こわいわね。全部吐き出していいのよ。(退行した口ぶりに、掌に寄り添う薄い頬肉の感触に、眦を和らげる。親指の腹で彼の下瞼の膨らみをなぞるように撫でながら、じっくりと囁き続けた。今この瞬間考え、感じていることのすべてを教えてほしい。たとえ醜くても、却って彼女の方が自身を恥じてしまうほど逆に美しくても勿論構わない。指股をくぐる皮膚も、ふたりの手を濡らす涙も、こんなにもあたたかい。生きている者の体温だ。彼女の目には寧ろ、今が一番、彼が夢の中の住人ではなく、現実に存在するひとなのだと確信できていた。だから言う。)私は、夢の中の住人じゃないわ。あなたの、助けて、って声を聞いて、ここへ来たの。あなたが戻らなければいけない世界に、私もいるわ。(一語一語を確と発声し、根気強く言い聞かせるように。彼の前でも数度垣間見せたことのある、頭でっかちな彼女の癖だった。昔からこういうふうに石頭で、生真面目で、融通が利かなくてそのくせ、心は決して強い方ではなかった。彼の微笑みを薄霧のように吹き払ってしまわないよう、ごくゆっくりと首を左右へ一度ずつ振った。)……私が、そんなにすぐ……急に前向きになれるわけないでしょう。無理してるの。強がってるの。それに私、あなたが思ってるほど美しくなんかないわ。ただのキャバ嬢だもの。ほんとうの自分を知られるのがこわいの、私も同じよ。私だって、どこまでが"ルカ"で、どこまでが"成果"なのか分からないわ。(一字違いのほんとうの名前。口にした瞬間、胸裏に隙間風が吹き込んで、つめたくなる。誰かに必要とされたくて、それが下心でも構わないとすら思って夜職に就いた。下卑た心は、真心よりもよっぽど分かりやすい。愛より恋が容易いのと似たようなものだ。欲求を駆り立てるヴァイオレットカラーの瞳の奥が、幽かに揺らぐ。歪もうとする柳眉を、定規で引いたように几帳面な直線状に矯正しながら、更に続けた。)でも、あなたを助けたいのよ。生きててほしいわ、幸せにしたいの。 ……だからあなたのことどうこう言う代わりに自分のことを責めるし、あなたを支えたくって、頑張らなきゃいけないから、自分を奮い立たせるの。あなたを守りたいから、私……つよくなるわ。(今、何を言ったら。何をしてあげられたら。これでいいの? これであってるの? こんなにも自分の力のなさを、言葉の拙さを痛感させられ、突き付けられたことなど、学生の頃以来だ。向き合うのはこわい。こんなにこわいことを彼に促そうとしているのだと、身に沁みて分かった。けれど、夢は一夜で醒めなければいけない。深追いしすぎて周りが見えなくなってしまった時、夢はひとの身を滅ぼすのだ。なればこそ、夜の蝶のみせる一夜の夢ではない、もっと永劫的なものを彼に誓いたかった。ほんの一瞬、睫毛を伏せ、目だけで俯く。緊張している時の、これもまた彼女の癖だった。)……でもね。でも、ちょっとくらいは私にも甘えさせてくれたって、罰は当たらないんじゃない? ……あなたのことは私が幸せにするから、私のことはあなたが幸せにして。 女性の幸せにし方はご存知?
ルカ 2020/02/22 (Sat) 07:07 No.46
(下瞼を撫ぜる親指、先の発言にしっとりと寄り添う囁き、男の五感に触れ、聞こえるものの全てが危ないほどに優しかった。ある種の甘さ、誘惑さえ孕んだ瞳の潤みすら同様に。固定された双眸の上で、再び困惑を乗せて眉尻が撓垂れる。胸底に巣食うものを吐き出したくても、自分というものを一切省みてこなかった所為で蟠りの名前すらはっきりと判別がつかない。だが言語化を諦め混沌から目を逸らしては以前の己と何も変わらない。)……元の世界に戻るだけならば甘んじて受け入れましょう。私が何よりも耐えがたいのは、そこに貴方がいらっしゃらない事です。(低く静かな声が、されども明確な輪郭をもって響く。実の所、現実の世界へ戻る事自体に抵抗は無い。無論気は進まないが、際限なく“従順”な男に拒否の意思など最初から殆ど存在しないようなもの。その男が唯一首を横に振るとするならば、やはりそれは彼女の不在に他ならないのだ。彼女もまた男が生きていた世界の何処かに存在していたのだろう、だが“何処か”と“此処”では全く話が違うのだと。 根本的に似たもの同士、物腰ばかりは柔和に見えて、この男も中々に頭が硬かった。「私も同じ」。説き伏せるような主張は、深い洞穴の奥に再び閉じこもろうとしていた男を今度こそ日の下に引っ張り出した。)ナイトメア様から真実を知らされた時、世界の理不尽さと同様に自分の愚かさも呪いました。他人に従う事しか出来ない自分、全てを投げ出そうとした挙句死に損なった自分、つまらぬ夢に貴方を巻き込んでしまった自分も。この短時間で全部を受け入れ、貴方のように自らを奮い立たせる力は……まだ持てません。貴方がどれほど言葉を尽くして、私を赦して下さるとしても。(神妙な面差しで相手を見据える。断定じみた語調。だが片手は依然として彼女の其れを握っていた。月は今にも周囲の濃紺に塗り潰されてしまいそうなか細さで、切迫した焦燥が男の胸裏に渦巻いている。ゆえにこそ、躊躇している場合では無いと口を開いた。温厚だが頑なな笑みを顔面に湛え、)ルカ様が私に手を差し伸べようと努めて下さっている、その事実に何よりも救われました。……一つだけ。ご自分を責める事だけは、どうかお止め下さい。見ての通り私は叱られて伸びるたちですので、それでしたら私が尻を叩かれる方がよっぽど“まし”です。 ……これだけは申し上げておきます。貴方が貴方に関して何と言おうが、私の目に映る貴方は他の何よりも美しい。(彼女と邂逅を果たした翌朝、大通りのカフェで「一目惚れ」宣言を言い渡した時のように、きっぱりと目を見て言い放った。今の彼女にかけるべき言葉として正しいかどうかは分からない。下手をすれば、自分に鞭打ち男を救おうとしてくれている彼女に対する、ある種の否定にすら繋がりかねない発言だ。しかしこの際、正解や不正解に拘っている場合では無いのだと。相手の双眸が俯けば、幼気な仕草に引き付けられた風に視線で追う。)……ルカ様が望む事でしたら何でも喜んで従う所存です。ですが、今の貴方が私に求めているのは従順さではない。……違いますか?(おもむろに膝を折り、睫毛の簾に隠された色を等しい目線から捉えなおそうとした。その一連の動作が我ながら己の肉体に馴染んでいて、つい参ったような苦笑が口角に漏れる。)教えていただけますか。私だって、負けないくらい貴方を幸せにしたい。(問いを受けての思案に時間を割くわけでもなく素直に教えを乞う様は、どうしたって盲従的な男の姿であったけれど。)
ヨハネ 2020/02/23 (Sun) 09:14 No.59
いるわよ。(短くちいさく吠えるような声音で、咄嗟に水を差してしまった。)いるの。東京、××駅から徒歩五分のキャバクラ、店の名前は――、(同じ世界へ戻っても、ふたりが同じ場所、同じ時間に生きていた人間かどうかは定かではない。摩訶不思議が渦巻くワンダーランドに在りながら、それほどやさしくてご都合主義で何から何まで水の流れみたいによどみなく事が進むわけじゃないと、身に染みて分かってもいた。断固として言い募る彼の様子に、は、と息をつく。具体的な解決案を明示したがる無粋な口吻を閉ざす。言葉を尽くしても無駄、と思ったわけでは、決してない。ただ、はじまりの時と同じ眼差しで射竦められて、固まってしまっただけだ。素直に耳端を赤らめて、下唇をぱくりと食み、無意味に斜め下を見た。)……女王陛下が、教えてくださったわ。元の世界へ戻る方法。でもね、それをあなたに教えてしまったら、私だけ帰れっておっしゃるんじゃないかと思って、……黙ってたの。(アイリスの花畑を照らす月明かりはか細く、花弁の青紫は次第に色濃く立ち込めてくるようでもあった。呑み込まれそうなほど。王城の中庭の月下美人などは、今頃、却ってむせ返るほどつよく香って咲いているかもしれない。)私、ちょっと……ううん、結構、ううんすごく。嬉しかったわ。あなたが、私と同じ世界の人間なんだって知った時。あなたを苦しめた世界なのにね。一緒に戻ることができれば……、あなたと離れ離れにならなくてもいい、これからも一緒にいられるかもしれない、って。嬉しかったの。浅はかよね。…………。(血色の悪い頬に触れていた掌が、絹の上を滑るようにするりとほどける。彼の長い指と絡め合い、もっと強固に結び直そうとする。 浅はかよね。あなたの葛藤を度外視した、自分本位で、ほんとうに卑怯なことだわ。自責の念を、最初の一語だけつい口にしてひととき押し黙った。同じ高さにやってきたスカーレットをちらりとねめつけて、「甲斐性なし。あなたのせいよ」といとけなく叱る声音に替える。)違わないわ。……私、従僕が欲しいんじゃないの。あなたが欲しいのよ……。(ぐにゃぐにゃと歪曲する眉を携えて、こわがるよな目つきで彼を見つめ直した。息を吸う。長いセリフを一息で言い切ろうとするみたいに。「……教えてあげる」)…………私が、あなたを守るわ。何があっても味方でいる、どんな時でも助けてあげる、き、キャバ嬢やめてちゃんと定職探すし、あなたにもっとお休みが必要ならその間私が面倒を見てあげる。家事はできるわ。貯金もあるの。いつも指名を下さる殿方にね、弁護士の先生がいらっしゃるのよ。場合によってはあなたのこと虐げた人間を法で斬るわっ だっ、だ、だから、~~あ、の、(どこかたどたどしさを含む甘ったるい声質が、早口に言い立てる。肝心なところで呂律が回らなくなって噛んでしまうのも、学生の頃からなにひとつとして変わらない彼女の欠点だった。思いが先行して、相手を置いてけぼりにしてしまう悪い癖。心臓が信じられない速度で肋骨の内側を叩き、痛いくらい。冷や汗の代わりの水分が眼孔のふちにこみ上げる。急なパニック状態に近く、三半規管に異常をきたして目の前がぐるぐる回るようだった。はじめてのチークカラーを張り切りすぎた少女のような頬が、煌々と赤くもえる。声色は燃え尽き、灰のように薄く儚い。)……だから…………わっ……私と、け…………け、結婚、してください…………。
ルカ 2020/02/23 (Sun) 10:50 No.60
(多年草の香りが不可視の霧のごとく犇めく夜において、一揃いの紅は依然として二人の目線の間を彷徨っていた。草食動物のごとく無抵抗な顔をしておいて存外に暴走しやすい薬師のように、さんざ一方的に捲し立てておきながら、いざ視線がすれ違うと未練がましく動揺して口を噤む事になる。“ヨハネ”のように熱量だけで押し切る事も“羽山園聖人”のように聞き分けよく引き下がる事も今の彼には能わない。中途半端に立ち尽くす男の頬と掌の隙間を、白魚のごとき指先が泳ぐようにすり抜けていく。命綱を取り落としたかのごとく眸子を揺らし、咄嗟に追いかけた矢先、待ち受けていたかのように搦め捕られて繋ぎ留められる指と指。沈黙の意図を読み取ろうとして目線の行方を辿ったのは束の間の事。微妙な角度に曲げられていた五指を折り、不器用なりに丁寧な所作で手と手の隙間を綴じ合わせ、薄い唇で「私は、」と切り出す。)貴方と出会ったのが、このファンタスマゴリアで良かったと思いました。現実で貴方に出会い、恋をしていたとしても、きっと声すら掛けられなかったでしょうから。……その点だけは、馬鹿な“ヨハネ”に心の底から感謝しています。(そう言って、双眸を細め、左右の口端をほっそりと持ち上げた。微風が吹けば瞬時に掻き消される蝋燭のような、何とも淡く頼りない笑い方だった。しかし幸いにして二人の世界に風は無く、弧状に浮かび上がった月も今のところ忍耐強く“その時”を待っている。重なる目線。嫣然たる微笑を捨てた紅唇によって表明された宣誓に、目を丸くした。読点が落ちるごとにスカーレットの正円を拡大させ、最後の最後、殆ど吐息のような結論が提示されたなら、)……、……、…………は。(絶句。そして、動転。言葉は心の隙間から生み出されるものであり、余白が見つからないほど何らかの感情で溢れ返ると却って何も出てこなくなると身をもって知った。酸素を求めるようにぱくぱくと口唇を開閉し、数拍遅れて血色の悪い顔が耳殻の縁まで鮮やかな色に染まる。心臓が転げ落ちるのを防止するかのように、片手で口を塞いだまま静止する数秒間。緩々と手を下ろし、)……いいのですか。私が、そのような果報者になっても……(と、掠れかけた声で呟く。見開かれたままの表面に透明な膜が張り詰める。上下の睫毛を擦り合わせると、呆然たる面持ちを堪える風に引き締めた。紫水晶を見返し、口を開き直す。)……っですが、それでは私があまりに多くの物をいただきすぎです。ルカ様が私に寄り掛かる余地が、無いではないですか……。(“従順”に肯いてしまえばいいものを、この期に及んで往生際が悪かった。対価無しに享受できる幸福は男にとって未知だ。未知のものに手を伸ばすのは怖い。だが同時に、これだけの勇気を奮い起こして「甲斐性なし」の男に手を差し伸べてくれた彼女を、己と同じだけ――否、其れ以上に幸せにしたいと強く願った。 自由な方の手を伸ばし、可愛い顔がよく見えるように、波打つショコラブラウンの髪をひとすくい耳に掛けさせようとする。垂れた眉も潤んだ瞳も紅潮した頬も、お世辞にも様になっているとは云えないかもしれないが、せめて言葉だけが上滑りしないよう、なけなしの覚悟を声色に込めて答えよう。)貴方が手に入るなら、最初から喜んで何でも投げ打つ所存ですのに。
ヨハネ 2020/02/25 (Tue) 04:18 No.78
(彼は彼女を買い被りすぎていた。彼女は、高嶺の花ではなく夜の蝶。どんなに不躾な指付きで触られてきたことか、数え切れない。気高い者を前にするかのような言い草と儚い微笑みに、居た堪れなくなる。こんな女を"もらって"だなんて、一生分の勇気を振り絞って打ち明けたのに、彼の意気地なさときたら! 言い淀むような声を聞き届ければ、一息に血流が活性化されて、頬から耳から、体中のいかなる末端までをも赤く染め上げた。)ばか! サイテー! "喜んで"って言ってふたつ返事で頷く場面よ! ……自分じゃ、寄りかかりたいだなんて言い出せないのよ。こういう言い方が、精一杯だわ。ちょっとは察して。(ああ、やっぱり、どんなに言葉を尽くしても無駄なのかもしれないと思い直す。彼女が数億に及ぶ言葉を彼に贈ったとしても、彼が彼女の髪に触れる指先の仕草ひとつっきりに遠く及ばない。)あなたは、ずるいわ。どうしたら、あなたが私を捕らえて離さないのと同じように、あなたを私に夢中にしておけるの?(息が詰まるほど、彼のことがいとおしかった。上下の瞼をきゅっと窄める。声音が熱く湿ってきて、言葉よりも饒舌に、この胸の奥に燻るせつなさを歌ってくれる。どうして? 最初は、あなたの方が一方的に私のことを好きだったはずでしょう? どうして、こんな、夢見がちな学生カップルみたいなこと私から言い出さなくてはならないの? 絡み合った指先の熱に浮かされる。すん、とちいさく鼻を啜った拍子に、伏せったきりの睫毛の先に留まった雫がまたひとつぶ落っこちた。)……目覚めたら一番逢いたいかたの顔を思い浮かべて、ファンタスマゴリアでもっとも高い時計台の上から月へ飛び込むこと。(ようやく観念して、仕方ないから、とっときの秘密を教えてやる、みたいな不貞腐れた声色をしていた。)…………私、それなりにつらいことが、自分比では、たくさんあったって思っているけれど……本気で死にたいって考えたことは、一度もないの。頭がぐしゃぐしゃになって叫び出したいような夜があっても、明日目が覚めたら、ドラマの最終回も、カフェの新メニューも、星野源のライブもあるぞって考えたらまだ死ぬわけには……とかって踏みとどまれてきたのよ。ばかみたい。でも、捨てたものじゃなかったわ。(もう、引かないって決めたのに。"押せ押せ"で突っ走るつもりでいたのに、眼界を遮る涙を拭いたくて、自ら繋いだ指先をほどきたがった。反面、簡単には振り解けないほどつよく繋ぎ止めていてほしかった。数年前のアイフルのCMのチワワみたく潤んだ赤い目に、それを乞うのは酷なことだろうか?)だから……ってわけじゃないけれど……あなたは、明日目が覚めたら私と結婚できる!!って思って飛ぶの! 私はもう、そのつもりよ。遠足の日の前の晩みたいに、……明日が楽しみだわ。(「あなたの心の準備ができたら、エスコートして」 虚勢を張るのも限界だった。眦が小刻みに震え出し、へちょりと威勢を失うまであと数秒。ファンタスマゴリアでもっとも高い時計台は、遠く彼女の背後に聳え立っている。)
ルカ 2020/02/25 (Tue) 05:31 No.79
(急激な噴火に気圧されて両目を白黒させる。もしも唐突に横っ面を張られたら殆ど同じ反応をするのだろうと推察できる、実に間の抜けた驚き顔を束の間晒した。 “ご奉仕”を生き甲斐と称する割にはつくづく鈍感で視野狭窄気味、おまけに肝心な場面で気が回らない。情けない事に、よりによって似てほしくない部分だけ“ヨハネ”に瓜二つの男は、真正面から罵倒を浴びてようやく眼前の紫水晶がひた隠している怯えや不安に気が付いた。本来の彼女の弱さや脆さ、或いは恐らく、この男と同等に不器用にして臆病な姿も。さざ波めいて再び押し寄せる涙の気配に胸裏を炙られ、焦げ付くような痛みが走る。彼女が訴えた通り、男は今宵――否、彼女と出会った夜から今日まで己の手で相手を引っ張った試しが殆ど無い。従順という名の他力本願。“アリス”の世話役が聞いて呆れる。此処まで夢を導いてきたのは常に彼女の方だった。睫毛の隙から雫が落下した瞬間、何かを引き留めたがるかのごとく、絡み合う手を更に柔く握り込む。教えられた目覚めの方法。視線が相手越しに高く聳える時計台を捉え、そして彼女の瞳まで戻って来る。引き結ばれた唇が驚愕や困惑を携える事は無かった。彼女が気高い女王の皮を脱ぎ捨てようとするのと時を同じくして、男の内側にもようやく自発的な意思の芽が育ち始めた。)……、……承知いたしました。(離れて行こうとする隻手を指先で雁字搦めにする風に固く結び直し、意地でも解けないようにする。短い応答を返してから一旦唇を閉ざし、続けるべき言葉を場当たり的に探していく。しかし瞳は一瞬たりとも逸らさなかった。)つらい事、儘ならない事、やるせない事。……全てを投げ出したくなる夜が、疲れ果てている筈なのに一睡も出来ないまま迎えた朝が、数えきれないほどあった事でしょう。それでも今日まで……踏みとどまって生きてくれて、有難うございます。 貴方が生きようとしている「明日」を、私にも教えて下さい。同じテレビを見て、冷蔵庫の奥にしまっておいたデザートを二人で分け合いましょう。貴方が二度と叫びだしたくなる夜を迎える事のないように、この命が続く限り私が貴方の傍におります。必ず幸せにしますから……どうか、 私と結婚して下さい。成果様。(まるで聖書の一節を読み上げるかのような長台詞。つい先程、言葉を尽くしても無駄だと大層な口を叩いたが、結局言葉を尽くす以外に人の身に出来る事など無いようだ。無論「言葉だけ」では終わらない。視線を外し遥か前方の目的地を見据えたと思うと、手を繋いでいない側から回り込むようにして歩みを進め、その途中で「参りましょう」と面映ゆさが混じった微笑みを向けた。かくして同意が得られたならば、その小さな手を引いて、ファンタスマゴリアで最も高い時計台に彼女を“連れて行く”。 一番上まで登りきると、弓状の三日月が地上で目にするよりも幾ばくか清かに輝いている風に見えた。人生の最後に見るような星空を仰いでいた赤色が、傍らにいるであろう彼女へと流れる。)……今、申し上げる事では無いかもしれませんが……、(たどたどしい前置きをして、一瞬躊躇う風に俯き、片手を口許に翳す。程なくして顔を上げると、彼女の首から下にちらりと視線を落とし。)その白いドレス。大変似合っております。……素敵です。(初めて人を褒めたかのような拙い感想を舌に乗せ、眦を下げてはにかんだ。)
ヨハネ 2020/02/26 (Wed) 04:50 No.85
(つらかった。自分の神経の強張りにひとり手を焼いて、一度躓いたら以降はなにもかも儘ならず、やるせないように感じて、自暴自棄になる。五年前もそうだったし、今までも多分、そうだった。)…………、 喜んでッ(なぜだか力んだ。感覚的に、暫くぶりで彼の双眸から、口ぶりから、毅然とした芯のようなものを悟った気がした。歯の根をちょっと食いしばる。一息で堤防を乗り越えた涙が、ぽろぽろ、というよりも、だらだらと頬から顎へ流れていく。指先が、あったかい。出っ張った関節の骨がこすれ合って少し痛いくらい、繋いでいてくれる。それだけで充分すぎるほど、彼女は幸せだった。)……あなたが私を幸せにするのなんか、簡単よ。見つめられるだけで、愛されてるって実感が湧くの。これってすごいことよ。あなたってすごいひとなのよ……結局敵わないわ。くやしい。(ちいさくかぶりを振りながら、ワイパー代わりの睫毛をまたたき、視界が白く煙るほどの涙を弾き出した。 所詮どんな女だって最終的には愛されたがりなのかもしれない。突然に、彼は彼女の心の隙間に、驚くほどぴったり収まる言葉をくれた。それと比してどうだろう。彼女の言葉のほうがよっぽど上滑りしていた気もする。何も聞かなければ何も始まらない彼との物語においても、かたくなに、現実世界でどのような仕打ちを受けてきたかだなんて、具体例を詳らかにさせることは憚られた。聞けば話してくれるだろうことも、聞かなければ話してもらえないだろうことも分かっていて尚、聞かなかった。単に遠慮したわけじゃない。此の期に及んで、わざわざ、希死念慮に塗り潰された記憶を呼び起こさせたくはなかった。ファンタスマゴリアで"ルカ"と共に過ごした時間を、悪夢ではなくて、せめていい夢だった、と憶えていてほしいから。"甲斐性なし"はどっちだった? ふっとすこし笑った。そんなに卑屈な呼気にはならずに、下手くそな自分を呆れながらいとしむような溜め息でもあった。手を引かれて時計台を上る。たった二週間で随分傷だらけになってしまった脚で、ゆっくりと階段を踏み締める。膝のかさぶたも、足首の湿布薬の匂いすらも現実に持って帰りたかった。絡めた指間を狭めて、惜しがるように彼を見上げる。度々見えた、彼の口許を隠す仕草。可愛くはにかむかんばせに、胸がぎゅっとせつなく締まる。)ありがとう。(さっきは、泣くのに忙しくて中々笑えなかった。今度ははっきり眉尻を垂れて、目が線になるくらい笑う。はじめて着た白いドレスを、はじめて褒められた。はじめてのデートで、はじめて披露する髪型を褒められた女子中学生みたいに幼く、純粋な喜色がふっくらと頬を持ち上げる。いつの間に黒が白に転じていたのか、彼女自身すらも今の今まで気が付いていなかった。もうほとんど消えかけて、どんなにけちった生ハムよりも薄い月を一瞬見上げる。でも最後には必ず、この目の行き先は彼のところへ戻ろう。)……迎えに行くわ、あなたのこと。あなたの、ほんとのお名前は? どこへお迎えに上がったらいいかしら? ……それとも、迎えに来てくれる? "Mome Wonderland"まで。(どっちでも良かった。ネオン街に佇むちいさなワンダーランドはいずれやめるつもりでいるけれど、店の名前がはっきり分かっていれば再会もいくらか容易いかもしれない。 ふ、と、抜けきらない胡蝶の悪癖で、わざと含みを持たせるような沈黙をひとたび差し挟んだ。ふたり以外の誰にも知られない、秘密の合図を送るような秘めやかさで、彼の指先をきゅっと握る。)キスして。(これもまた、しても、しなくても、どっちでも良かった。今生の別れでもなし、また会えた時まで”待て”をしたいならそれでも……というのは強がりで、虚勢だった。無言の圧を含んだヴァイオレットが数秒、じっと彼を見つめ、思わせぶりに背伸びまでしてみせる。されど、彼女に負けず劣らず”甲斐性なし”な彼が、それでも催促に応じてくれないというのなら渋々引き下が らない。彼がしてくれないなら、先刻の密かなシグナルなどなかったかのようにつよく指先を引き寄せて、バレリーナみたいに爪先立ちして、こっちから唇を掠め取ってやろうとするだろう。)――愛してるわ。 すぐにまた。(”またいつか”だなんて言えない。 希う声音を彼の耳元へふき込んで、飛ぼう。薄い月は中天高く澄み切って、淡く消え、朝を、”明日”の訪れを今にも告げようとしていた。)
ルカ 2020/02/26 (Wed) 08:00 No.86
(何という事はない、男が贈った言葉は、半ば男自身に言い聞かせるものでもあったのだ。二人はジグソーパズルの凹と凸、ではない。寧ろ凹と凹、同じ欠乏を抱えた似たもの同士の二人だから、互いの心の隙間に何が嵌るかも本当は最初から知っている。もとい、彼女にその事を教えられた。まるで心がスポンジ状になったよう。一筋の川のごとく頬を流れ落ちる水が中核にまで染み込み、男はくしゃりと目尻を崩して破顔する。)私を幸せにする力を持っているのは、貴女の方です。(先ほどまでの彼女がそうしていたように掌で片側の頬を包み、きめ細かい肌を濡らす其れを優しく拭う風にして撫ぜようとした。湿った感触と火照る体温は今宵触れたものの中で最も現実味を帯びていて、何かが腑に落ちると同時に愛おしくなる。)貴女の声で名前を呼ばれるたびに、ひどく安堵しました。貴女の傍にいる事を許可されている心地がして……成果様が叱って下さったおかげで、もう何も恐れる事なく貴女を愛する事ができます。ですから、私は幸せです。(口角をふっくらと持ち上げ、懇ろな口付きで福音を重ねていく。覚えたての言葉を継ぎ接ぎしたかのように拙い告白。一方で、声音は相変わらず低いのに、今にも浮かび上がりそうな多幸感に満ち満ちた。 男の“女王”となるのは、男と同じくらい生真面目で強情な彼女でなければならなかった。彼女の言葉が男にとって「上滑り」したものであったなら、錯綜した心模様をぶちまける事すら恐らく叶わなかっただろう。ブレーキの故障した涙腺が愛おしく、まどかな笑声が唇の端から零れ落ちる。男の心の隙間もまた、彼女の言葉や仕草、表情、注がれた愛情によっていつの間にか埋め尽くされていた。三日月の真下、溶けそうなほど柔らかな笑み顔を受け、色が乗った頬を一層緩ませる。)……私の名前は、羽山園、聖人。と、いいます。(誰かの口調に似て、一語一語をじっくりと刷り込むような言い方になった。教えられた居場所の名前を口の中で呟く。)目が覚めたら、その日の夜に貴女を迎えに参りましょう。逢えなければ、次の夜も、その次の夜も。必ず迎えに参りますから、どうかその時までお待ち下さい。(“待て”も得意だが、結論を提示するまでに時間はかからなかった。確約と同時に恭しく頭を垂れる“ヨハネ”の名残りが、意味ありげな沈黙に誘われるかのごとく睫毛を羽ばたかせる。指先が力を伝えれば、心臓を直接掴まれたように鼓動が跳ねる。放たれたのは命令未満の四文字。持ち上がった踵の分だけ近付く瞳。結局ここでも彼女にリードされる始末だ。情けなさ、動揺、躊躇、されども意気地の無い感情に思考を支配されるのは一瞬の事。勇気を振り絞らんとする風に、眉根をひとたび引き締めて、)――成果様。(承知いたしました、とは返さなかった。代わりに絡めた五指を握り返したなら、もう片手を相手の背中に回しながら頭を低め、シャワーを待ち受ける花のような唇に向かって接吻を落とそう。ただ数秒、形を確かめ合うような純真な口付け。されど伏せた瞼の裏側が熱く濡れるほどに、全身が幸福に包まれた。接吻の後、改めてウェディングドレスのような純白に身を包んだ彼女を見下ろす。まるで彼女自身が発光しているかのように眩く、嬉しすぎて怖いくらいに綺麗だと思った。細められた双眸に万感の思いが宿る。)私も、貴女を愛しています。 また“明日”。(時は満ちた。最後の瞬間まで手を繋いだまま、二人の男女が時計台の頂上から飛び立つだろう。あえかな月明かりと裏腹に、夢の終焉は強烈な光の海によって塗り潰される。眠りに就くように目を閉じた。もうじき迎える“明日”に、よい報せが訪れる事を願いながら。)
ヨハネ 2020/02/27 (Thu) 10:07 No.88
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