Mome Wonderland


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(誰がために輝くライムライト)
(「それはとても素敵なことだよ、エトワール!」 星の海が朝陽に溶けて、澄み渡る青空が眩しく広がっていた朝。希望のひかりが注ぐ中で、夢と向き合おうとする意思をまっすぐに咲かせたむすめを前に、道化師は大層朗らかな声を上げてむすめの決意を歓迎した。全身全霊でたのしんでみたい。大切な宝物を胸に、大きく翼を広げて羽搏かんとする想いを後押ししてやりたかった。幸福な夜にあれだけ踊り明かした彼女の、疲労感が見えるどころかますます活気を取り戻したかのような様子を喜ばしく思った。だから花園の前でそうしたように彼女の両手を掬い上げ、それなら帰る方法を見つけなくちゃねと囁いて柔らかな両手をしっかりと包み込んでやっただろう。大切なものを取り零してはいけないよ。軽口めかしてむすめへ説きながら、湛えた表情は常と変わらぬにやにや笑い。大丈夫、ほんとうを隠すのは道化師の本分だ。きっとうまくやれた筈。りんどうが咲く花園の奥に翳る寂しさを見つけた気がしたって、それはきっと己に都合の良い夢。──そうだ、全てが夢だった。愚かな人間が焦がれてやまずに見続ける夢。ここでは誰も男を嗤わない。誰も男を傷つけない。小さな驚きに明るい喜びを宿して、誰も彼もが笑ってくれるやさしい世界。笑顔の花が咲き満ちて、寂しさなど無いあたたかな世界。星の光よりも小さく、優しい光に満ちた世界。ここならずっと楽しく過ごしていられる、ずっとしあわせに過ごしていられる。)……っ。(いつの間にか、夕陽は地平に沈み空は宵闇に包まれていた。一番星に続く数え切れない星達が、頭上にきらめいている。然れど男の視界に映るのは天に瞬く光では無く、湖面に揺らぐ星空だ。俯く男の相貌は暗く鎖され、水鏡には唯の真っ黒な影しか映っていない。湖面の星空はただ静かな光を宿している。手を伸ばせば今にも届きそうだった。きっとこの光に沈んで眠れば美しい夢が見られるだろう。失っていた記憶の最後の一頁が甦れば、ぐらりと身体の均衡が揺らぐ。けれど男の身体を引き止めたのは、夜に消えようとする下弦の月を水面に見たからだ。)……、コユキ……。(刻限を迎えれば彼女が現に戻れなくなる。彼女を帰す為に、せめて彼女が自分で帰る方法を見付けるまでの猶予を女王に乞わなければ。己は今宵、月と共に潰えるとしても。分かっているのに畔に座り込んだ足は竦んで動きそうにない。最後に立ったステージでもそうだった。愚かで滑稽な男の真実など、所詮こんなものだった。)
ジェスター 2020/02/19 (Wed) 09:16 No.2
ねえ!……っは、ぁ、……ジェスター……ジェスターを、見なかった?!(やあアリス。すれ違う住人たちは皆なごやかな表情で、けれど血相を変えたむすめを見ればおどろき、知るかぎりのことを教え、あるいは親身に肩を抱いてくれた。探しているの?お茶会で見たよ。いつからいないの?お城に行くって言っていたわ。詮索も意地の悪いこともしない、どこまでもまっさらであたたかい人たち。離れがたくなるほどに優しい世界、夢のくにファンタスマゴリア。ありがとう。本当に。心をこめて紡ぐ感謝に、さようならをしのばせた。―――アリスがジェスター探してる。アリスがジェスター探してる。またたく間に広がった善意を聞きつけ、ふくろうの青年が湖のすぐそばで見たと伝えに来る。真っ青だった。怖がっていた。まるで別人みたいだった。ああやっぱり思い出してしまったんだと、無意識のうちにくちびるを噛んだ。湖までの道をたしかめて、むすめはふたたび地面を蹴る。今度は絶対迷わない。最短距離であなたを目指す。酸素が足りない肺よりも、不安にきしむこころが苦しい。)―――…いた………!ジ、 ………、(宵空一面にちりばめられた星と、東の空にとけてしまいそうな月、それらを映す凪いだ湖面――キュクノスの湖。人影を求めた視線の先、深まりゆく夜のしじまに、果たして焦がれたそのひとはいた。名前を呼んで駆けだしたい衝動をぐっとこらえて、ひとつおおきく息を吐く。そうして一歩、また一歩、しずかにむすめは近付いてゆく。岸辺に。彼女だけの魔法使いに。そのこころに。)なあに。(呼ぶ声を掬い上げるように、ひどくやわらかな音で応えた。おどろかせてしまっただろうか。それとも静寂に混じる衣擦れに、気配を感じ取っていただろうか。むすめは青年のすぐ隣にしゃがみこむと、眼前に広がる景色を見つめた。こんなにたくさん星が降るのを、現の世界では見たことがない。ずいぶん喰われてしまったけれど、弓張り月も好きだった。)きれいなところだね。どうして誘ってくれなかったの。(勝手な不満をぶつける声は努めてあかるい。くちびるとがらせた不細工な顔に、彼が笑ってくれたらいいと思った。青年が顔を上げていてもそうでなくても、笑っていてもそうでなくても、むすめは穏やかな笑みを浮かべ、言葉をかけ続けるだろう。覗きこむように、上体をかたむける。洗いざらしの黒髪が、さらと肩口をすべって落ちた。)………かえろう?ジェスター。―――……いっしょに。(戻りかたは、教わってきたよ。 ささめく声が意味するところは、彼にただしく伝わるだろうか。むすめはそこで言葉を切ると、いらえの声をそっと待った。数秒でも、数分でも、それ以上でも。まあるく揺れるりんどうが、今日を限りの月に染まる。)
コユキ 2020/02/19 (Wed) 18:12 No.4
(静寂は嫌いだ。トリックをミスして消した筈のカードが袖口から滑り落ちた瞬間、スポットライトの届かない暗闇から落胆が聞こえてくるから。落胆だけならまだ良かった。失態を待ち望んでいたかのようにクスクスと広がる嘲笑が恐ろしかった。姿の見えぬジャバウォックが群れとなってせせら笑っているようだった。草葉の揺れる音でさえ怖ろしくて、耳を塞いでしまいたい心地がする。故に男は深まりゆく夜に広がる優しい波紋に気付かなかった。)──っ、コ、ユキ、……。(声が届くのが先か温もりが寄り添うのが先か、男の知覚では恐らく同時であったろう。白い面を上げて声の主へ顔を向ければ、三日月よりも柔いカーブを描く唇が湖水の景色を讃えている。星の光を溶かした様なむすめの黒髪がさらさらと流れ、美しい真円を形作るりんどうが男の方を向く。然れど、男はびくりと肩を震わせてむすめとは反対方向に上身を退いた。若草へと突いた手は硬く握り締められて、血の気が失せている。そんな無様な姿を見ても、むすめが穏やかに男へと語り掛けるなら戸惑う様に唇が震えていた。)……帰り方が、分かったのかい。(それは僥倖だ。それなら彼女の首が刎ねられる事無く、無事に元の世界へ戻る事が出来る。彼女の一番の想いを叶えに行ける。だが男の胸に齎されたのは安堵では無く、更なる恐怖だった。一緒に。むすめは確かにそう言った。即ち、彼女は男の正体を知っている証左だった。誰から?何を?どこまで?己が思い出した全て──?推測が背筋を凍らせる。やけに乾いた唇を引き攣らせて、次の言葉を生み出すまでに幾許かの時間を要してしまう。そうしている間にも彼女の猶予が無くなってしまうというのに、どこまでも男は愚かだった。)……良かったじゃないか。君だけでも、帰ると良い。(突風が吹けば掻き消されてしまうようなか細い声だった。思えばワンダーランドでは嵐どころか雨雲ひとつ見なかった気がする。この心の様に暗く沈んだ天候など、ついぞ見る日は無かった。)……でも僕は、……僕は帰れない。……帰りたい場所なんて、もう、……それに、僕は、君に……嘘を吐いていたようなもの、だから。(いびつな形を作る唇で、唯一明確に告げられたのは帰郷への拒絶だけ。後に続く言葉も彼女へ向ける視線も、行先知らずで彷徨うばかりだった。──本当はワンダーランドの住人などでは無かった。十四日間、彼女の前に居た男は正しく道化に過ぎなかった。ペテン師、インチキ野郎、と己を嘲る幻聴が鮮やかに脳裏に響く。途端に、喉奥で空虚な音が小さく鳴った。)
ジェスター 2020/02/19 (Wed) 21:24 No.10
(名を呼ばれたなら頷いて、やわくまなじり細めてみせる。怯えるように離れた体、笑みが消え去った青い顔ばせは、むすめをひどく動揺させた。こころの奥がきしんで鳴く。それでも表情を崩さなかったのは、彼もそうしてくれたからだ。首を刎ねよとおどかされたとき、森で悪夢に囚われたとき、惑うむすめをはげますように、彼が笑ってくれていたからだ。いつだってほがらかな笑顔を絶やさなかった優しき道化師。その底抜けにあかるい笑みに、わたしは何度も救われた。どれだけ心強かったか。どれだけ心がやわらいだか。知っているから、微笑んだ。彼がそうしてくれたように、むすめも彼を照らしたかった。)うん。……女王さまがね。教えてくれたの。(震えるくちびるが紡いだ問いかけを、きちんとした声で受け止める。だから一緒に帰ろう、そう重ねようとして思い止まったのは、続きを言いあぐねた青年が、とても苦しそうに見えたから。むすめはふたたび口をつぐむ。急かすつもりはいっさいなかった。月はまだ、頭上高くにある。けれど、)―――、(帰ると良い。君だけでも。その声が耳朶に触れたなら、懸命に繕ってきた微笑みに、とうとう隠しようのない悲しみが滲むのだ。帰れない。なぜ?声を持たぬ双眸が、くちびるよりもあけすけに問う。ほろほろとこぼれ落ちる言葉に、ちいさくかぶりを振ってあらがう。)今夜しかないんだよ。月が沈んだら、………朝がきたら、どうなるか、(わかっているの? 平素よりもいとけない声は、ともすれば責めるように響いてしまったかもしれない。声がふるえそうになるのも、涙があふれそうになるのも、くりかえしまばたきをして我慢した。嘘を吐いていた。消え入りそうな声で言う彼の、揺れるネオンブルーを見つめる。まっすぐに。どうかそらさないでと、祈りながら。)うそつきだなんて、思ってない。(断言する。)ファンタスマゴリアのジェスターじゃなかったから、なに? ずっとそばにいてくれた。楽しませようとしてくれた。森に助けに来てくれた。宝物を思い出させてくれた。この14日間のどれもぜんぶ、消えてなくなったりしないじゃない。わたしはずっと、嬉しかったよ。あなたといると、たのしかった。………もしもすべてが嘘だとしても、わたしはその嘘で救われた。あなたが“ジェスター”でいてくれたことは、“アリス”になったわたしにとって、ほんとうよりもだいじな嘘だよ。(「それじゃだめ?」 困ったように眉を下げて、むすめはそっと微笑んだ。母のように。姉のように。ふたごの星の片割れのように。怖がらないで。責めないで。あなたを信じるわたしの笑顔を、どうかあなたも信じてほしい。)
コユキ 2020/02/20 (Thu) 09:06 No.19
(呼び声に応じて頷く眼差しは、むすめ一人に怯える無様な男を見守るように柔くりんどうを細めている。弓張月の瞼が閉じ掛けた夜でも彼女の花貌だけははっきりと見えるようだった。まるで失われ行く月の光が、彼女の身の内から溢れ出しているよう。然れどりんどうの月に照らされるのは、ファンタスマゴリアには在り得ない亡者の如き、薄ら白い仮面ばかり。)……知っていたなら、(もっと早く教えれば良かったものを。吐き出したのは責める言葉というより、諦めに似た嘆息だった。そういえば宵闇の従者も方法さえ教えればすぐにも帰ることは叶ったと宣っていた。ならば己が彼女の為に何もせずとも、彼女はきっと帰れたのだ。血の気が失せた指先は強張ったまま、身動き一つ出来ずじまい。かろうじて動く視線もむすめの顔から逸らせないくせ、視線を交わす事だけは避け続けた。それでも、萎れる花の如く首を振る姿に胸が痛む。なぜ?真っ直ぐに響いた透明な疑問は、男が月に何を願ったのかを知る故の問い掛けだろう。だから男は口許を歪めて、肯定を囁く。)……魔法みたいに消えるだけさ。種も仕掛けも無く、ね。(瞬きと共に堪える気丈さを美しいと思う。それは心の奥底に根付く彼女自身の気高さ、強さの現れでもあろう。弱々しく肩を竦めるばかりで、おどける真似すら出来ない男とは違う。況して己を苛む幻聴に彼女の声が重なる事を怖れて、一層身体を縮めかけた──その瞬間。) っ、(幻聴を祓う様に凛と響く声。導かれるように視線を這わせれば、思い出を辿る声がする。お茶会、鏡の森、舞踏会。むすめの声で甦る思い出は決して色褪せてはいない。けれど何もかもが遠い輝きのようだった。)……ファンタスマゴリアのボクしか知らないから、そう言えるんだよ、エトワール。(小さく零すと、そろそろと窺うようにりんどう色へと視線を向ける。目の前で包み込むように、支えるように、寄り添うように微笑む瞳は未だ星の瞬きより遠い光に感じられた。それでも渇く喉で、震える声を吐き出してゆく。)……ただ、誰かを笑わせたかった。みんなを笑わせたかった。それだけなのに、もう誰も……っ、僕を、信じてくれない……。あんなに楽しんでくれたのに、みんな、僕を嗤うばかりだ。……怖いんだ。ステージに立っても、手も足も震えるんだ。嘘吐きだって、偽物だって、……嗤われる事が、怖いんだ。(胃の奥から込み上げる恐怖心に喉が詰まる。座り込んだ足許も氷河に囚われた様にカタカタと震えて止まらなかった。けれど肚の内を吐き出せたのは、男を照らす星が居続けてくれたからなのだろう。やがて朝陽が訪れたなら、星は空に霞んで消えてしまうのだろうか。君の微笑みが嘲笑に変わってしまわないだろうか。己を信じられない男は、恐れを三日月に変えて口元に張り付ける。)……だったら、”ジェスター”のままがいい。僕は、君の大事な嘘のままでいい……。
ジェスター 2020/02/20 (Thu) 21:38 No.25
ほんとうにね。……でも、悪くない采配だったと思うよ。あなたと一緒に過ごせたし、友だちもたくさんできた。(嘆く声には同意して、されどやわらかな反論も添える。夢魔が青年をねむらせてくれたから、女王が猶予をくれたから、今、こうしてふたりでいる。たしかに遠回りだったけれど、彼がいってしまうよりずっといい。そう思わずにはいられなかった。残酷なことだとわかっていても。さまよう瞳に、ましろい指に、彼の苦しみの深さを見れば、胸を抉られる心地がする。ただ痛ましく、いとおしかった。無様だなんて、思うはずがない。)―――っ、 それを 、(望んでいるのと続く言葉が、喉の途中でひっかかる。消えてしまいたい。こんなにさみしい切望を、もう一度彼に言わせたいのか。くちびる歪めたその顔を見れば、もう、それでじゅうぶんだった。知らないからと詰るような台詞は、こころを覆う鎧だと思った。彼がこちらを向いてくれたなら、むすめの虹彩はやわらかく色付く。迷い子みたいに揺れ惑う碧を、まばたきもせずに見つめ返した。その述懐は痛みを伴う。余すことなく受け止めたかった。)―――…、(笑わせたかった。信じてくれない。大事な嘘の、ままでいい。悲痛な声が胸を刺す。ファンタスマゴリアは夢の世界。望んだものを見せる世界。あかるい魔法で皆をおどろかせ、いつも笑顔に囲まれていた陽気なジェスター。それが彼の望みなら、鏡合わせの現では――。ステージに立つと震えること、他人の嘲笑が恐ろしいこと。彼を苛む断片は、むすめのそれとよく似ている。そのおそろしさを知っている。だから、すこしも迷わなかった。)―――信じるよ。わたしは絶対に、あなたを信じる。(勇ましい声を松明にして、彼にまとわりつく霧を薙ぎ払う。凍えゆく星でふるえる君よ。夢を失いかけている君よ。叶うならばその冷えた右手を、両手でそっと包みこみたい。その星をあたため直したい。あなたの夢を、終わらせたくない。)あなたのステージを信じるよ。どれだけみんなが馬鹿にしても、広い劇場がからっぽでも、最前列であなたを見上げる。震えてしまうならそばにいる。嗤う声だって、拍手の音でかき消してみせる。だから、(誠実な響きで誓ったなら、休符を打つように睫毛を伏せ、短い沈黙を挟む。それからぐいと顔をあげると、青年の双眸を、滲むひとみでまっすぐに見つめた。右手を静かに持ち上げる。青年の白く乾いた頬に、ひとさし指の背を這わせる。)泣かないで。(仮面の奥に隠した涙を、そっと優しく拭うように。)たすけてって、言ったでしょう。聞こえたよ。だから、会いに来たんだよ。(告げるのは、女王が明かしたもうひとつの真実。おさなごをあやすような声音で、この奇跡を、その幸福をうたおう。あなたのメーデーに、わたしは呼ばれた。そのことが、心の底から誇らしい。)
コユキ 2020/02/21 (Fri) 18:23 No.36
……それなら、良かった。(早期に帰還できた筈のむすめには不要な遠回りでも、少しでも幸福な時間だと彼女が受け止めている事に静かな声が落ちた。帰る手段など探さなくとも用意されていたのだから、男の存在が無力だったとしても、彼女にとって無為な時間ではなかったなら良い。──まるで初めから何も無かったかのように、種も仕掛けも無く消えてしまいたい。愚かな望みを月に抱いた男を責める事もせず、忘却によって隠し続けた真実を問い詰める事もしない心優しいむすめ。夜を和らげる穏やかな光で、道化師を真っ直ぐに見つめ返してくれる。だからこそ、この優しい星明りが朝陽の果てに消える事が恐ろしい。光が失われてしまうくらいなら、自分が宵闇に消えてしまう方が余程良かった。真冬の風に曝されて足先から凍てつくような震えが止まらない。然し、全身が凍り付いて砕けるよりも早く、春の陽射しが指先に触れる。)……っ、ぁ、(”信じるよ。”迷うことの無い、確かな熱を宿した声が響く。出口が見えない洞窟を照らすように、ぽつぽつとしるべを灯す声だった。両手で包んでくれる温もりに溶かされた微かな音が零れるも、その先が続かずに渇いた唇は震えるばかり。けれど、もうりんどうの星から視線を逸らしはしなかった。)──……っ。(ついにむすめの人差し指が触れた時、弾けるように碧眼が見開かれる。刹那、男の相貌を覆う白磁の淵からひとしずく、星が溢れて彼女の指先を濡らしていた。頬に触れていない手が未だ男の手を包んでいれば、硬く握り締めていた指先が微かに弛んだ事が伝わるだろう。)……僕に、逢いに来てくれたの、……コユキ。(初めてお茶会へ彼女を連れ出した時、だれかの声に気を取られてこの世界へ訪れたと言っていたのを覚えている。果たして己がいつ彼女を呼ぶ声を上げたかは分からないが、彼女がその声を拾い上げてくれた事が嬉しかった。ひとつ、ふたつ。溢れる星はむすめの指の背を流れて手の甲までも濡らしてゆくが、止められる筈が無い。)……僕のトリックが盗作だって、師匠が言って。みんながそれを信じて、僕を嗤って。もう、誰も……誰も、僕を信じてくれないって、……ひとりぼっちだって、思っていたんだ。(共に零れた声は、か細くはあったが幾らか明瞭さを取り戻していた。だが決して痛みが消えた訳では無い。だから縋りたい心地で、片頬を細い人差し指へ擦り付ける様に微かに首を傾けた。そうしながら、頭の片隅で鏡の森での出来事を思い出す。青褪めた顔をしたむすめを前に、己は躊躇う事無く肯定を贈った。世界中の全てがむすめを否定したとしても、己だけは心の底からこの目映く輝く星を信じると。──嗚呼、それはきっと。)僕は、……僕も、誰かにそう言って欲しかったんだね。信じてくれるひとに、逢いたかった。(途端に、拙い笑みが唇に灯る。白いアスターが咲くような、ささやかで小さな笑みだった。)
ジェスター 2020/02/21 (Fri) 22:07 No.39
(しじまに響くよかったの声に棘はなく、けれど共感も宿ってはいない。自分は関係ないけれど、なにもしてやれなかったけれど。そういう気持ちでいるのだろうなと、むすめはひどくもどかしい。あなたなのに。ほかでもない、あなたなのに。声で、まなざしで、触れた指先で、一瞬でもいい、青年の心をあたためたい。愚直にすべてを信じる声で、その足元を照らしたかった。――やっと笑ってくれたのに、泣かないでなんてあべこべだ。けれど、彼は泣いていた。むすめには、そう見えたから。懸命に笑顔をつくる道化師に、指先でそっと祈りを届ける。どうか泣かないで。ひとりぼっちで泣きながら、無理に笑ったりなんてしないで。こぼれ落ちた星の熱さが、この青年の真実だ。繋がったままの左手のなか、指先から少し力が抜けたのがわかれば、がまんしないでとささめいた。どこか不安げに聞き返す声を、抱きとめるように首肯する。)そう。あなたに。あなたに、逢いに来たんだよ。(碧から降る星がきらきらひかる。そのひとつひとつをていねいに拭いながら、青年の声に静かに耳を傾けた。盗作。嗤って。ひとりぼっち。――“師の裏切り”。あの言葉の意味するところに、怒りで顔が歪んでしまう。けれどこの頼りない指先に救いを求めるひとがいるなら、そんな感情も思考の外へ消えるのだった。許せないけど、くやしいけど、そんなことはどうだっていい。いまはただこのしずくを、孤独を、残さずぜんぶ受け止めたい。首をかしぐ動きに応じるように、てのひら全体で濡れた頬を包みこむ。だいじょうぶだよって、伝えるみたいに。)うん。………逢えたね。(信じてくれるひとに逢いたかった。確かめるようにつぶやいた彼が、ふいに浮かべた微笑み。陽気な道化師のくっきりとしたそれではなく、もっとずっと淡い色の、純朴でひどくあどけない笑み。これまでの得意気な笑顔もいいけれど、この笑いかたも、むすめはとても好きだと思った。短い相槌に、言い尽くせない気持ちをこめる。逢えた。逢えたね。あなたも、わたしも。―――そうして。)わたし、なにかできるかな。(青年の瞳に、ひかりがいくらか戻ったころ。しずかな意思を宿した声で、むすめはそっと尋ねるだろう。)お客さんだけじゃなくて、ビラ配りとか。変な衣装じゃなきゃ、助手をやってもいいよ。(彼の、――彼との、これからのことを。)……もちろん、ステージから離れたっていい。遠い外国の道ばたから始めて、日本に返り咲くのも素敵ね。 なんでもいい。どんなあなたでもいい。――だから、(そこまで穏やかな笑み浮かべ、楽しそうに話していたむすめの顔ばせが、躊躇と惜別によって翳る。ここから先は、わたしのエゴ。わかってる。それでも望まずには、いられなかった。)……いかないで。(声がふるえる。)いかないでほしいの。それで、……わたしに、逢いに来てよ。ファンタスマゴリアのアリスじゃない、ただのわたしに。
コユキ 2020/02/22 (Sat) 17:58 No.49
(あなたに、逢いに来たんだよ。真っ直ぐに届く声は闇を裂く一条の光となって男の耳に響く。踏み出す事の出来ない足許を暖かく照らす光を求めて、向かい合うむすめの顔ばせを見詰めた。滲む視界ではやさしい輪郭がはっきりと見えず、彼女の存在すら夢の一端では無いかと却って不安になる。けれど弛んだ指先を包むしなやかな左手が、強張る身体を解きほぐしていく。緩んだ心から溢れるしずくを拭う指先が、確かに傍に居ることを教えてくれる。縋った指先が男の頬を包み込んでくれたなら、柔らかなベッドに沈み込むように頬全体を擦り寄せていった。)……逢いたかった。……たった一人で良いから、僕を信じてくれるひとに、逢いたかった……。(技術や心得を一から教えてくれた師匠も、驚嘆と歓声を与えてくれた観客も、男が信じていた全てが過去となって消え去った。大切だと思っていた宝物が何もかも掌から零れ落ちて、もう何も残っていないと思っていた。なのに今、砕けた硝子を拾い上げるように男の零す涙を受け止めてくれる温もりが有る事が何よりも嬉しい。だから道化師として彼女の前で浮かべ続けた大輪の笑みに比べれば随分ちいさかったが、雪解けに咲く野の花よりも穢れなき笑みを咲かせる事ができた。)……え?(彼女の存在を確かめるように柔らかな掌へ甘えつく最中、凛と通る声が響けばあわく聞き返す。最初は彼女が例示した案を飲み込めず、まっしろな疑問符がまろび出る。然れど、差し込む光が未来を照らしている事に気付けば俄かに息を呑んでいた。そうして男を照らすりんどう色が翳りを帯びれば、締め付けられるように胸が痛くなる。曇る顔ばせ。震える声。不安を宿す希求を前にして、暗闇の底から浮かび上がる想いに気付く。だから浮かべた笑みを一度潜めて、逡巡するように数度唇を開閉させる。漸く吐き出せた声は、小さかった。)……コユキが助手になってくれるなら、とびきり素敵な衣装を探さないとね。(囁くように告げた後、男の頬を包むやさしい手へ重ねる様に己の手を伸ばしていた。怯えるようにこわごわと、指先からむすめの手の甲へ触れる。少しずつ自らの掌を重ねる事が叶ったら、一度深く深く息を吐き出してから想いを声に乗せてゆこう。)……ね。初めてファンタスマゴリアで目を醒ました時、コユキは月の光を浴びて踊っていたでしょう。……今でもはっきり覚えているよ。あの時、コユキは本当に綺麗だったんだ。舞踏会の日もそう。シャンデリアの真ん中で、誰より素敵に踊っていた。あんなに輝いて笑っていた君を、君の夢を…翳らせたくはないな。(声を震わせて未来を願うむすめを正面から見つめる。その時、やっと男は彼女の瞳もまた滲むひかりを湛えていたことに気が付いた。──そんな風に、顔を曇らせないで欲しい。不安を感じないで欲しい。君にそんな顔をさせたくない。今の自分にそんな資格が許されているかは分からない。それでも、)コユキは、自分の夢を叶えて欲しい。それから、沢山笑って欲しいな。僕はコユキの笑った顔が大好きだから。ただのわたし、なんて謙遜しないで。……誰より素敵な君に、僕はあいにいきたい。(君を笑わせたい。 未だ頼りなくとも確かなひかりを灯したエレクトリックブルーで、逸らす事無くりんどう色を照らしてみせた。)
ジェスター 2020/02/23 (Sun) 09:08 No.58
うん。………うん。信じてるよ。ずっと。これからも。(ここにいるよと応えるように、滲むネオンを見つめ返す。飾らない言葉でくりかえして、そっと優しく頬を撫でる。信じている。そばにいる。誓いが熱となり指先ではぜた。ちいさな笑顔がほころべば、むすめの顔ばせにもほほえみが灯る。まるで路傍にしゃがみこんで、ひっそりと咲く野花をことほぐように。――前置きもなく語り始めたむすめを、青年が不思議そうに見やる。それでも気にせず言葉のあかりを増やしてゆけば、やがて彼から合点する呼気が聞こえた。逝かないでほしい。どんな姿でもかまわないから、あしたも生きていてほしい。つらい道だと知っていながら、こちらを選んでほしいと乞う。ひどいことを言っていると思えば、青年の返答を聞くのはすこし怖い。それでもほそい睫毛を揺らして、彼のくちびるが開くのを待った。)――…、(助手になってくれるなら。耳朶に触れたささやき。拒むでも、嘆くでもない、微かでもむすめの言葉に共鳴したそれは、彼女のこころに希望を芽吹かせた。不安、期待、罪悪感、恋慕。たくさんの感情がないまぜになって、りんどうの双眸があわくまたたく。少しずつ重ねられる青年の手に、てのひらがすっぽり覆われる。おおきな手。やさしい手。数えきれないほどの笑顔を、生み出してきた魔法の手。)……うん、(覚えてる。おおきな声で褒めてくれたよね。その次の朝も。舞踏会の日も。いつも明るく手を引いてくれて、笑ってくれて、笑わせてくれて――たいせつな夢を、取り戻してくれた。見つめる碧に応えるように、懐かしむ瞳で微笑み返す。そうして彼の、"ジェスター"としてではない彼の、ねがいがむすめの道を照らしたなら。"素敵な君に" "あいにいきたい。" たしかにあしたを望む声が、むすめのこころに滲んだなら。)―――…!(今度は彼女のひとみから、大粒の涙がこぼれ落ちるのだった。嬉しかった。彼の世界が続くことが。それを選んでくれたことが。ぼろぼろと落ちるに任せて頬を濡らし、しゃくりあげながら何度も頷く。あふれる気持ちがコントロールできない。胸がいっぱいで苦しいくらいだ。それでも、)………っ、好きなの、………笑った顔だけ……?(むすめはくちびるに笑みをたたえて、冗談めかして抗議するのだ。笑ってほしいって、言ってくれたから。笑っていたいって、思うから。)―――…、………かえろう? いっしょに。ねむりから醒める方法は――…、日本に帰る方法は、(凪いだ湖面に照らされながら、むすめはふたたび彼をいざなう。今度は頷いてくれるでしょうと、ひとつも疑わない笑顔で。目指すのは、このくにでいちばん高い時計台。傾きはじめた下弦の月も、きっととびきり美しいだろう。)
コユキ 2020/02/23 (Sun) 20:05 No.64
……ぁ、(むすめの掌に触れる事さえ勇気が要った。恐る恐る己の手を重ねれば、あっさり包み込める掌の小ささに声が震える。こんなにも細くて、小さくて、出逢いの夜に満月を優しく撫でていた奇跡の手。あんまり強く握り締めたら壊してしまいそうで、力加減に躊躇した。けれど微笑むりんどう色から透明な一等星が零れ落ちたのなら、思わず繋いだ掌にぎゅっと力を籠める。)な、泣かないで、…っ。(狼狽える様に声が上擦る。そう言う男の眦にも未だ涙は残っているのだから、些か説得力に欠けたかもしれない。然れどむすめの掌を包む方とは反対の手をそっと伸ばして、溢れる大粒の真珠を拭おうとした。震える声を聞くだけで胸が苦しくなる。その痛みは彼女を泣かせてしまった後悔でもあり、全く別の感情でもあった。)……ごめんね、コユキ。君をとても不安にさせたね。……ありがとう、コユキ。僕のたすけてを、聞いてくれて。(彼女を悲しませたくないと望むのに、彼女が涙する理由が己に在るという事が嬉しかった。己の内に芽生えた甘い身勝手を謝る一方、確かに己のこころを拾い上げてくれた礼を囁く。そうしてしゃくりあげる声が止まるまで待っていれば、思わぬ苦言に身動きが固まった。「えっ」と零すは、まっしろな声。可憐な顔ばせに悪戯な色が宿ったなら、息を吹き返した鼓動が大きくドクンと高鳴った。青い動揺が悟られる前に曇り無い笑顔が向けられたなら、小さく頷いてもう一度笑おう。)……うん。帰ろう、コユキ。一緒に。(告げる声に迷いは無く、そのまま二人で立ち上がれば彼女が示す場所へと向かおう。湖を離れ、森を抜け、街の中を共に駆け抜ける。擦れ違う住人達が「いってらっしゃい!」と手を振るなら、淡く口端を緩めて手を振り返した。明るくて笑顔の絶えない、やさしくて大切な隣人達へ「ありがとう」と応えながら時計台の扉を開けば、天辺を目指してゆく。)……コユキ、(薄暗い階段を登る途中、不意に男は口を開く。前置き無く語りだすのは、先刻むすめに問われた抗議への返答だった。──あのね、)真面目で礼儀正しい君が好きだ。ごめんなさいもありがとうも言える君が好き。ちょっと負けず嫌いなところも可愛いんだ。素直に話を聞いてくれる君が好き。一生懸命で頑張りやな君が好き。……でも、やっぱり一番は笑っているコユキが大好きだよ。(一段ずつ踏みしめながら、捧げるのは闇に鎖された心の底から湧き上がる想い。言葉にする度、踏み出す足に新しく力が宿るような気がした。そうして天辺に辿り着いたなら、一際大きな歓声を上げるのだ。)──…ねえ、ほら、見てご覧よ!(歓喜の矛先は眼下の景色へ向いている。女王の居城よりも高き時計台。空の移ろいを教える鐘が揺れる展望台の下では、街中の仲間達が家々に光を灯して時計台を見上げていた。懐かしくも暖かな光が満ち溢れ、天空にも地上にも果てなく星の海が拡がっている。傾きゆく下弦の月さえ、冴える光を宿して舞台上の二人を照らし出している。余りに眩しい景色に、微かに足が震えてしまう。けれど、もうひとりじゃないと知っているから。男は静かに息を吸って、立ち竦む弱さを吐き出せた。)……本当は、まだ怖いよ。目が醒めたら、本当に何もかもが夢にならないかって。現実だとしても、何から始めればいいのかさえ直ぐには思いつかないけど…──コユキに逢いに行くよ。必ず。
ジェスター 2020/02/23 (Sun) 23:08 No.67
(深い安堵を孕んだしずくは、むすめの強がりを剥がしてゆく。くやしいとも、嬉しいとも、すこし違う透明な衝動。こんなに素直な泣きかたを、むすめはこれまで知らなかった。涙を拭う手のぬくもりに、思いがおもてにあふれ出す。)よかった………このまま朝、…二度と……っ、ばかっ、……君だけ、なん、言うから、わたし………っ(悲しかった。不安だった。むずかる子どもがするように、弱々しい声で責め立てる。それでも気持ちを汲み取ってくれたから、うん、うん、と頷くうちに、呼吸は整ってゆくだろう。ささやかな反撃は、照れ隠しもあったかもしれない。おどろいた顔をした彼に、むすめは満足そうに口角を上げるのだった。―――帰ろう。一緒に。 短く、迷いのない声が、胸にじんわり広がってゆく。時計台へ向かう道、行き合う住人たちのあかるい笑顔。またすこし泣いてしまいそうになるけれど、さようならだから、きちんと笑った。そうしてたどり着いた目覚めの塔、空を目指して階段を登るさなか。ふいに呼びかけられたなら、「うん?」とおだやかに応じて、)え、 ………っ (冗談に隠して求めた言葉が、なんの前触れもなく返ってきたなら―――世界が急に、色付いたのだ。まるで足元を埋め尽くす花弁が、吹き抜ける風で一斉に舞い上がったみたいに、あざやかに。何度も好きだとうたう声に、胸が詰まってなにも言えなくなる。「………っ そ、」かろうじて返したそっけない声は、階段を登りきる直前に響いた。全然かわいくないけれど、それでも好きって、言ってくれるかな。)えっ……、―――わぁっ……!(促されて視線を向けたなら、そのまばゆさに表情がほころぶ。空にいちばん近い場所から見る、果てなき星の海のさざめき。女王さま。ナイトメア。ドードーちゃん。親切にしてくれた仲間たち。みんなの顔が浮かぶようで、むすめはまあるく瞳を開き、ゆっくりとひとつまばたきをした。ひかりにあふれたやさしい国を、この虹彩に焼きつけたくて。ありがとう。大好きよ。どうか最後まで、見ていてね。)―――……。ぜんぶ夢だったら困るなぁ。すごくひさしぶりに、好きな人ができたのに。(打ち明けてくれた恐怖を、さらりと笑って受け止める。彼がこちらを向いたなら、悪戯っぽく細めたひとみに、やわらかな思慕が滲むだろう。)………わたしもね、あなたが好き。お調子者で、強引で、おっきい犬みたいに無邪気なジェスターも――…だれかの笑顔にしあわせを見出だす、底抜けにやさしいあなたも好き。(それは舞踏会の夜とおなじ、輝石を見つめるあまやかな音。素直に伝えられたのはたぶん、むすめなりの願掛けだった。ほら、おなじ気持ちでいるんだから。だから、)きっと大丈夫だよ。夢じゃないし、また逢える。……知ってるでしょう。星は見えづらくなるだけで、――…昼間もそこに、あるんだよ。(彼だけじゃなく自分のことも、励ますように言い切った。あなたを、わたしを、信じていると、まっすぐなひかりを宿したりんどうで。 ―――離さないでねと甘えたら、強く手を握ってくれるだろうか。そっと微笑み預けあえば、決意が揺らがぬうちに行こう。合図はやっぱりワン・ツー・スリー? なんでもいいね。ふたりなら。そうして道化師と彼のアリスは、おとぎを脱ぎ捨て月に飛ぶ。帰ろう。帰ろう。現の夢へ。はじめましてと笑うあしたへ。)

(朝陽にかすんで見えなくたって、星は消えずにそこに在る。だからきっと、探してね。真昼もかがやく星になるから、わたしのことを見つけてね。エトワール―――わたしを星と呼んだひと。あわくほほ笑む、いとおしいひと。)
コユキ 2020/02/24 (Mon) 19:03 No.71
(触れたそばから弾ける透明な真珠が次から次へと流れてゆく。一緒に溢れる想いも受け止めるように優しく拭い続けながら、男は困った様に口端を緩めてみせた。彼女に対して困惑している訳では無い。己の事しか考えずに彼女を傷付けた事への罪悪感が有るのに、彼女が流してくれる涙を拭える今を喜ばしく思う反省の無さも確かに有る事が心苦しくて、胸が甘やかに痛むのだ。幼子のように泣きじゃくる声へ、同じだけの大きさをしたごめんねとありがとうを返したら、滑らかな頬を何度も撫ぜるようにして涙を拭い続けた。そうして互いに頬の上に幾筋もしずくの跡を残したまま、笑顔の花咲くファンタスマゴリアの真ん中を駆け抜けてゆく。簡単なカードマジックで容易く笑ってくれた素直でやさしい住人達。他愛ないお喋りで何度だって笑い合えた彼らへ、さようならと告げるのだけは憚られたから「いってきます」の想いを込めて何度も何度も手を振った。共に進む彼女も同じ感慨を抱いているのだろう、隣で笑っていてくれることに安堵しながら辿り着いた時計台で二人きりになったなら、仄かに息を呑む気配を感じて心に柔らかな熱が息衝いた。──階段を登りながら、思い出すのはおとぎの世界の素敵な記憶たち。どんな記憶の彼女だって大好きだった。飾ることなく想いを言葉にしてゆけば相槌も返事も特に聞けなかったが、最上段の手前で聞こえた小さな小さな声に思わず破顔してしまった。照れたら素直になってくれない、そういうところも可愛いんだよ──と添える前に、世界中を包む光の洪水を目の当たりにすれば、目映く輝く星の海へと意識が奪われる。)綺麗だね。こんなに……こんなに素敵な場所に、僕たちは居たんだね。(この世界に招かれなければ、静かな湖へと沈み永遠の眠りについていただろう。こんなに美しい光の世界を知ることも無く、暖かな笑顔に迎えられることも無く、そして何より彼女と出逢う事も無かった。本当に、本当に夢のような世界だった。だからこそ未だに震えそうになる足を、怯える心を素直に明かしたなら、受け止めてくれる笑顔に安堵の息を吐く。)……コユキ、君ってひとは。(シャンデリアよりも目映い光を前に、柔らかく微笑むりんどう色を見つめてはにかむような笑みが零れた。愚かな男が貰うには余りにも純粋な慕情に、心臓がやかましく歓喜を歌う。とくとくと高鳴る鼓動が全身に熱と勇気を巡らせた。だから、無条件の信頼を宿す眼差しを受けて大きく頷いてみせる。)そうだね。また逢えるって、君が言ってくれるなら。必ず逢える。どんなに見え辛くても、星はいつも傍に居てくれるって……信じるよ。(信じている。確かな想いを言葉にすれば、求めに応じてしっかりと掌を握り締めた。決して離れないようにと繋いで、正面を向けばまるで客席へ挨拶するように背筋を伸ばす。──然れど、不意に隣へと顔を向ければ徐に彼女の横顔へと身を屈めた。叶うなら涙が乾いた頬の上へ、掠めるようにそっと唇を触れさせる。だって君が教えてくれたねむりから醒める方法は、このくにでいちばん高い時計台から──)僕のことだけ考えていてね、エトワール。(目覚めたら一番逢いたい人の顔を思い浮かべて、月へ向かって跳ぶこと。そうでしょう?と笑った頬に挿した朱色は仮面の輪郭が隠してくれればいい。負けず嫌いの彼女から抗議や反撃を受ける前に、「行こう!」と微笑んだならカウントダウンを始めよう。明日へ。未来へ。ふたりで居るから怖くないよ。)──ワン・ツー・スリー!

(ふたり手を繋いで跳び込めば、月に導かれる引力で身体が光に消えてゆく。跳んだ拍子に外れた虚構の仮面は、おとぎの世界へ置いてゆこう。りんどう色の星を見つめて微笑んだ素顔は、君の為に輝くライムライト。どうか、本当の人生を授けてくれたあなたを照らす光になれますように。)
ジェスター 2020/02/24 (Mon) 22:11 No.75
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