Mome Wonderland


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(“夢を見たのはどっち?”)
(濃紺の夜空に小指の爪ほどの薄い三日月が掛かっている。刻限が目前に迫ってきている事を悟った男は、赤の女王に直談判を持ちかけるべく草臥れた鞄を一つ提げ、王城を目指そうとしていた。メディチナの森を抜ける寸前、進路を塞ぐ風にして極夜の騎士が立ちはだかるまでは。)……どういう事でございましょうか。ナイトメア様。(呆れと憐憫が入り交じった眼差しを注がれ、余所者の烙印を押されたとて、男の面差しは変わらなかった。敵意を一切伴わない、さりとて梃子でも動かぬような頑然とした微笑み。其れが崩れ去ったのは、対峙する男が白い掌を此方へ差し向けた時だ。)何を、 ――ッ!(風が吹き、男の頭上で木の葉がざわめいた。咄嗟に庇うようにして手の甲を眼前に翳したのは防衛本能の一種。だが“其れ”は、まるで溶けた水銀のように否応なしに男の脳内に侵入し、怒涛の勢いで失われていた記憶の氾濫を巻き起こす。 最初に鼓膜の内側で弾けたのは、耳を劈く硝子の玉砕音。泥酔した父親がビールの空き瓶を叩き割る音だ。酒を調達するまで帰って来るなと千円札を掴まされ、霜焼けが出来た素足を引きずりながら深夜の町を彷徨い歩いた。外に出る時は顔の痣を隠すために帽子やパーカーのフードを被った。誰とも口を利かない少年を同級生は不気味だと敬遠し、唯一交流があったのは少年を従順な下僕か珍しい玩具と見なす近所の不良だけだった。川に投げ捨てられた通学鞄を取り返そうとして溺れかけた少年の姿を見下ろす男達の下品な笑い声が、消えない染みのように脳裏にこびりつく。生き地獄から逃れたい一心で勉強し、高校を卒業すると都内の薬学部に進学した。大学には男を甚振る人間はいなかった。真っ当な“大人”は理由も無く対象を攻撃しない。親しげな笑顔で接近し、そうして意のままに利用する。「何であんな暗い奴と仲良くしてるの?」仲間からの質問に、友人だと思っていた男は決まってるだろと鼻で笑った。「試験前にノートを見せてもらうためだよ。意外と役に立つんだぜ、あいつ」)……~~~~ッ 、お゛えっ…………。(両脚から力が抜け、地べたに膝をつき蹲った。饐えた胃液が食道を這い上り、耐えきれずその場に嘔吐する。その間も記憶は走馬燈のように脳内を駆け巡る。就職先の会社では、周りと同じスーツを着た男は単なる消耗品でしかない。時間感覚すら麻痺する激務の日々。変化の兆しなど一向に見えない生活の中、朝と夜だけが入れ替わるように訪れる。心身ともに疲弊してなお、逃げ出したいとは露とも考えなかった。男自身、己を他人に扱われる事でしか存在理由が得られない道具のように認識していたのかもしれない。あるいは思考する能力すら奪われてしまったのか。男を死へ向かわせたものが結局何だったのかは分からない。同僚の裏切りに怒りが燃えた訳でもなければ、今後さらに困窮する生活を案じた訳でもない。ただ丸めた書類で背中を叩かれ、「役立たずが」と吐き捨てられた瞬間、辛うじて男の生を支えていた柱がぽっきりと砕けたのだ。 浅い呼吸を何度も何度も繰り返し、更なる吐き気を堪える風に下唇を噛み締めながら、ようやく男が顔を上げる。生理的な涙を湛え光る双眸の色は、失意と憎悪と後悔を燃料にして昏く燃える炎の其れだった。)…………俺を、(低くしわがれた声が落ちる。目を剥いて再び俯き、もう吐き出す物もないのに息遣いだけで嘔吐いた。丸められた背中が酸素を求めて上下する。重い身体を支えるように、地面に片掌をついた。)どんな気持ちで……俺を見ていた? 他人の言いなりになるしか能がない俺を? 記憶を飛ばして迷い込んできたと思ったら、今度は頼まれてもいないのに勝手に人助けを始めた俺の事を?(返事は無い。相手の顔を見る勇気も、無かった。誰かの傀儡となる以外に生き方を知らず、夢の世界へ逃避してなお自己を犠牲にして他者に奉仕し続ける事を望んだ男。冷たい黒曜石の瞳には、さぞ愚かにして哀れな存在に映ったに違いない。ファンタスマゴリアの住民も、男をとんだ愚者だと見なしていたのだろうか? ただ「役に立つ」から表面上だけは優しく接していた? 女性一人抱き上げられないひ弱な男を、小太りの夫人は内心「役立たず」だと軽蔑していたのだろうか? 奥歯を強く噛み締め、両肩を小刻みに震わせる。惨めな人生を歩んできた現実世界の自分。大喜びで他人にこき使われていた夢の世界の自分。二重の自己嫌悪が徹底的に男を支配し、一縷の希望すら見い出せなくなる――その刹那。)……ルカ様……。(月明かりすら届かない心の暗部に、一筋の流星が尾を引いて降り注いだ。男の夢に迷い込んだ一人の“アリス”。彼女だけは途中で損得勘定を捨て、男の存在そのものを受け容れてくれた。男が彼女を望み、恣に求愛する事を赦してくれた。心臓がひとたび脈を打つ。嫋やかさと艶めきと一匙の憂いを含んだ紫水晶が、たちまち恋しくなる。またあの声でヨハネ様と呼んでほしい。艶やかな髪に、滑らかな肌に、もう一度だけでいいから口付けたい。会って、溢れる感情を今度こそ伝えたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。会いたい。)…………ルカ様に、会わせて下さい……。(再び彼女にまみえたとて、非力で滑稽な今の己が一体彼女に何をしてやれるだろう。だが温もりを諦め孤独な世界に立ち返るには、恋の麗しさを、愛のよろこびを、知りすぎた。一緒になりたい、などと身の程知らずな望みは抱かない。別れが来る前にただ一度、福音を報せ合えたなら。 眦から滴り落ちた雫が一粒、線を描いて流れ落ちていく。顔を伏せたまま一人祈る男は、極夜の騎士がすでにこの場から姿を消している事にも気付いていなかった。)

(小太りの婦人の送迎に失敗しやむを得ず馬車を呼んだ後日、薬の回収に向かった先で同じ女性と再会した。あの時はごめんなさいね、と眉を下げる婦人に対し、フードを被った薬師は即座に首を横に振った。)いいえ、いいえ。どうかお気になさらないで下さい。(明るく答え、微笑む。)貴方様のお役に立てる事が、私の何よりの喜びでございますから。
ヨハネ 2020/02/17 (Mon) 17:14 No.9
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