(死んじゃいそうってなあに?おれはね、もう死にたいなら知ってるよ。――週に五日、飾り気のないネイビーの制服に身を包んで通った学校は、少年にとって心穏やかに過ごせる場所のひとつであった。正門へ続く緩い坂、図書室の窓から見える桜並木、チョークの香り。どれもファンタスマゴリアには無いものだというのに、次から次へと記憶の屑がこころの底に降り積もる。息を吸っても吐いても胸が苦しくて、肺の中に灰が詰まっているんじゃないかと疑ってしまいそうになる。浅い呼吸を繰り返して、いつもの上着を羽織ったままはだしで外へと飛び出した。此処はおとぎの国。誰も傷つかない。誰も悲しまない。誰も絶望を知らない。素足は汚れこそすれ、傷付くことなく地面を蹴ることが出来た。もっとゆっくりな駆け足で、前へ前へとバックして、上の地面に向かわなきゃ。ワンダーランドの住人らしいモノローグを引っ提げて、当てもなく夜道を駆ける。空に浮かぶ月には殆ど光は残っておらず、瞬く星々はいつもの笑顔を失くした少年に何事かと囁き合っている。風のない静かな夜のはずなのに、耳に響く心音が煩くて仕方がない。)……っるさい、(そよ風が運んでくる夜想曲はもう聞こえない。走って、転んで、また走って。走り抜けた先に広がる景色は、幾多の鏡に映る自分の顔だった。以前、迷子の彼女が立ち入り禁止の森とは知らずに迷い込んでしまったその場所は、幻想的な光に満ちている。一体いつの間に迷い込んでしまったのだろう。呆けた顔をするのは、前に訪れた時には何ら害のない森であった為。記憶を持たぬ者は、鏡に過去を映さない。けれど今のコルネは違った。鏡に映った桃色の髪が、少しずつ濁ってゆく。)あ、……ぃ、 やだ、……っ、 やめて、おれは、(有り触れたというには恵まれた高校生だった。友人の数はそれなりに多かったし、成績も優秀。塾や参考書にかけるお金を渋られたことは一度たりとも無い。ただひとつ、両親からの愛だけは何をしても得られなかったけれど、無い物ねだりをするのは嫌だった。或いは、与えられない現実から目を背けたかっただけかもしれない。それでもやっぱり愛されたかったのだと今更に思い知ったのは、この場所で彼女に向けた「好き」が他ならぬコルネ自身が求めていたものだと理解してしまったからだ。鏡に映る自分の姿は徐々に歪んで、軈てクラスメイトの陰になる。「ネカマとかキッツー」「おじさんに媚び売って小遣い稼ぐの楽しい?」「やめろよ、和真はそんなんじゃ……」方々から聞こえる声を追い出したくて、耳に両手を押し付ける。胃の中で、胃液がぐるぐる回って気持ちが悪い。思わずついた膝の下で、鏡の割れる音がした。恐る恐る視線を下ろせば、そこには桃色の髪が映っていた。コルネの姿だけれど、コルネの姿ではない。ふっくらとした頬、星の瞬く瞳、甘いピンクのツインテール、機械で加工した少女の声。素直で明るく愛されていた"彼女"は、コルネの理想そのものだった。)っは、はぁ、……あ゛っ、ぐ……ぅ、 や、 やめ、(「みんなのことだーいすき!」「コルネは本が好きなんだ!」「甘いものを食べると元気になっちゃうんだよ、知ってた?」きゃらきゃらした声が、針のように胸へと刺さる。かわいいだとか好きだとか、自身を肯定してくれるコメントに救われていたのは確かだった。少ないながらもファンと呼べる人たちが居て、両親が愛してくれない分まで画面の向こうの誰かに愛されたくて。媚びていたのかと指をさされた瞬間、それを否定することは出来なかった。幾ら息を吸っても一向に酸素が足りなくて、なのに鏡写しのそいつは0と1で構成された微笑みをいつまでも浮かべている。――「和真、」ふと、背中の向こうから声が聞こえた。その瞬間、世界から音が消えていく。心音も、ガラスの擦れ合う音も、鬱陶しい声たちも。何もかもがそこには無い。ぎこちない動きで振り返った先には、小柄な女性が佇んでいた。)ひっ、 ぁ……あ、 あ、……おかぁ、さん………… ごめ、ごめんなさい、 おれ、おれ……。(道端に落ちたごみを見るのと同じ目をしていた。仕方がない、そうされたも仕方がないことをたくさんして来たのだから。期待に応えられるような成績を残さなかった。勉強をしていると嘘を吐いた。可笑しな趣味に没頭した。何もかも、悪いのは和真だった。いつからだろう、母親の前に立つと足が竦むようになったのは。いつからだろう、母親が息子のことを「アンタ」と呼ぶようになったのは。いつまでだろう、彼女の自慢の息子を演じなければならないのは。吐き出したものは殆どが胃液で、喉がヒリヒリ痛んでいる。鏡の森に近寄ってはいけないよ。店主の教えを思い出す。)ごめん、なさい。ごめんなさい。いい子にするから、テストで100点取るから、お母さんが言ってた大学にもちゃんと合格するから。だから、だから――……、(立ち上がる足は震えていた。引き攣ったくちびるが紡ぐ言葉を聞きたくなくて、耳を塞いだまま走り出す。鏡の草木を素足のまま蹴飛ばして、時には凡庸な学生服の少年が映った木の幹に拳をぶつけて。やっと見えた森の入り口、草木の合間を抜ける前に。「気持ち悪い、アンタなんか生まなきゃ良かった」) ……ナル、……な、っう゛ぁ……っ、 はぁ、はっ、 ナル、ナル……こわい、やだ……たすけて、……おれ、…………ナル……。(気が付けば彼女と森を抜けた時と同じ、小道の真ん中に伏していた。瞳からひっきりなしに溢れるそれが涙だと気付くこともなく、ただ幼子のように丸まって震える身体を抱き締め続けた。倒れる際に飛び出したガラスの小瓶は無残に割れて、鮮やかな星屑たちがそれぞれに光を放っている。まるで、金平糖みたいだ。そう思った時、ああ、もうおれはファンタスマゴリアのコルネじゃないんだと分かってしまって。夜明けの瞳から涙がまた溢れ出た。)
コルネ 2020/02/16 (Sun) 23:55 No.7