(“ここの、声を出す部分に腫瘍が見つかりました”示された白い影が、かすれた声の原因だった。“すぐに何かがある、という訳ではありません”けれどこのまま肥大化すると、他に影響がないとも言い切れないという。“摘出をおすすめしますが――”その先は、何と言っていたんだっけ ?)
(息が止まりかけた、というのは比喩ではなく、忘れていた息の仕方を思い出したような感覚だった。浮かぶ月を見上げ、あの今にも消えてしまいそうな光のように消えてしまえたら。思い出して最初に考えるのがそれなのだから、とことんどうしようもないなと旋律を紡がぬ唇がわらった。知らされてとんと腑に落ちてしまったのは、疑問にも思っていなかったそういえばが数多思い浮かぶからに違いない。特別なものだなんて、きっとうたっていた時には思っていなかった。たしなみだった声楽がいつしかほんとうに楽しみになったその延長線上の未来の先に、まさかそのうたう声を失う可能性を突きつけられることになるだなんて思ってもいなかった。理不尽だと言うべきか。世界にはこんなにも声や音が溢れているのに。いいやそれなら、生まれて音を知らぬひとに失礼だ。思い出した苦悩の先、その先で声を失って生きることになるかもしれぬと思えば足は竦んだし、声とともに生も手放してしまえたらと逃避が滲む――その先が、この夢。ファンタスマゴリアという誰かの紡いだおとぎ話の先だった。現実に向き合えなくなって、記憶さえ手放した愚かもの。記憶を失ってなお、自分は歌をうたっていた。記憶がない理由も深く考えないまま、逃げた先でお花畑のような頭の中を形にしたような花園で昼も夜も好きなだけ。でたらめで思いつきみたいな旋律のようで、どこか懐かしいようなそれはだって、現実で自分が歌っていたものとよく似ているからだ。思い出してしまえばなんて情けない。けれどそれだけ根深いものだと思い知って、それが絶望に変化する。仰ぐ天は深い闇。月の姿が掠れているならばさぞ星がうつくしく見えようものなのに、何故だかそれがよく見えない。まるで真っ暗闇にいるみたいだと、あの日月から降ってきた彼女を見つけた時みたいに、噴水を背にしながら感じていた。ただ居る場所はおんなじでも、その他は全部違っている。気持ちも、見えるものも、耳に入る音も――うたう、声も。何をうたって良いのかもわからない迷子だ。ただ、彼女の問いかけが反響のように何度も耳奥で蘇る。――“あなたじゃなかった?”)……ジュン、(続くはずだった言葉は、結局どれか分からなくなって迷子のまま夜風に消える。抜け落ちていた空白が戻ってきても、白は白のまま。塗り潰されてぐちゃぐちゃだ。項垂れるように落とした頭は、まるで萎れかけた花のように褪せた白を夜闇に浮かべていた。)
エセル 2020/02/16 (Sun) 23:42 No.5