(雲一つない青空だ。そのはずだった。雲がないということは、存在を知っているということだ。天候という概念がないファンタスマゴリアとは別の、何処かで。──お嬢さん、あんたは自分を信じられるかい? 俺は信じられないよ。俺は自分が、信じられない。)
(糸が切れたように、というのはまさにこのことだ。膝が床に落ちた。座り込むような格好で、身動きが取れなかった。見開かれた紺青は目の前にいるナイトメアを映さない。踵を返しその場を去ったことにも気付かなかった。刻限が迫る中、せめて彼女を元の世界へ戻すための猶予を作れはしないかと訴えるべく、城内を探し回った折のこと。齎されたのは未来の光明ではなく過去の晦冥。呆然としていた。愕然としていた。指先に至るまで強張るのは凍えているせいか、そう思えるくらいに身体の芯が冷え切っている。)俺は、(顎が震える。声も震える。意識して瞼を閉じ、開けば、嘗ての光景がはっきりと蘇る。親友と出逢ったのは大学の入学式のことだった。桜の匂いがした。地方から上京した男が、校内地図を眺めていた時に偶然肩がぶつかったのが彼だった。意気投合するのに時間はかからず、サークル勧誘の嵐にもみくちゃにされていっそ愉快になって、顔を見合わせて大笑いしたのを憶えている。初めて飲んだ酒に潰れたのは彼のほう。終電を逃して一時間かけて話しながら歩いた、冬の白い吐息。単位の取得漏れで肝が冷えた時にフォローしてもらったっけ。起業のきっかけになったのは経営管理論の授業で、実際にアイディアを出し合い起業の流れを追うものだった。彼と同じグループになり発表した内容が教授に評価され、就職活動をせず会社を立ち上げることになった。最初は彼とふたりだけの小さな会社だった。しかし男の時流を掴むマーケティング感覚と交渉力、彼の細やかな事務処理能力とバランス感覚が見事に合致し、徐々に業績を上げていく。人を雇い総務を任せ、他にも営業担当も増やし、順風満帆と言って差し支えない。彼が学生時代から付き合っていた彼女と結婚するというから、二次会の幹事は任せてくれと破顔したあの日。何の憂いもなかった。世界は希望で満ちていた──そう、はっきりと覚えている。大きな商談が纏まり、早く皆に、彼に報告したいと会社の事務所へ戻った夜。事務所があるフロア、エレベーターを降りてから違和に気付く。廊下の電気が消えている。夜とはいえまだ宵の口、こんな時間に珍しいなんて、そんな暢気なことを考えていた。歩を進め社員通用口のドアを開いた時、文字通りの意味で呼吸が止まった。真っ暗だった。いつもなら彼含め数人が残っていて、お疲れ様と声をかけてくれる。しかし事務所の照明は光を知らず、目が慣れるまで状況がまったく呑み込めなかった。ようやく理解が及んだ瞬間、手提げの鞄がフロアに落ち、倒れる。誰もいないどころか、設置してあるはずのパソコンや電子機器の類がなくなっていた。率直に言って夜逃げのようだ、そう思ったくらいに。茫然としたまま勝手に指先がスマホに伸びLINEを送る。既読がつかない。電話も繋がらない。彼だけでなく他の社員も同様に。背に薄ら寒いものが迸り、なのに鼓動だけがやけに鮮明だった。暗い事務所を認識出来ぬままひとまず帰途についたものの、一睡も出来なかった。翌朝になって事務所に行ってもやはり誰の姿もなく、顧客にリスケの連絡をし、彼の住むマンションに向かった。慣れ親しんだ部屋番号を押しても反応はなく、いよいよ混乱が限界に達した時だ。大学のゼミの同期から電話があった。「直人、もしかしたら知らないかと思って」──。)……っ、は、(首を手で押さえつける。何が漏れ出るのかもわからないまま乾いた吐き気を逃した。頭を低くし背を丸め、必死で呼吸を整えようとする。思い出した。何故忘れていたのだ。これほどまでに魂すら蝕んでいる痛みを、何故忘れていたのか。目の裏が灼けるように熱いのに、涙のひとつも零れてこない。悲しむ資格なんてなかった。それほどまでに彼を追い詰めたのは、男自身だったから。彼の厚意に甘えていた。信頼を無造作に無遠慮に差し出し、それが当然だと疑いもしていなかった。何でも腹を割って相談したが、思えば自分は彼の話をきちんと聞いてやれていただろうか? もはや振り返る余裕もない。)おれ、は。(眩暈がする。事実を把握した時、裏切りと断罪する気は起きなかった。只管自責が男を侵食し、残ったのはただの空虚だった。何もなかった。何かが麻痺してしまったのかもしれない。陳腐に過ぎるが、生きる意味を見失ったのだ。どうやって呼吸をしていたのかもわからない。ただ笑顔を見ていたかった。幸せであって欲しかった。なのに自分には、その力がない。愚かなるイカロス、傲慢こそが罪の始まり。)…、…… …、……。(唇が薄く開いては閉じ、声は一音とて出てこない。その時だ。懐から光が滑り落ちた。ホワイトゴールドの鎖に繋がれたブルーハイアライトオパール。装飾品ではなくアミュレットだ。以前彼女に贈ったものよりずっと小粒のそれ。舞踏会の翌日に仕入れて、内緒で持ち歩いていたのはただの男の自己満足だ。廊下に敷き詰められた絨毯の上、確かにそこに煌きがあるのに、男の指先が硬直したまま動かない。届かない。伸ばすことが、出来ない。)…………リア。(呼んだのは無意識だった。男は認識していなかった。いつだって彼女の幸せを祈っている。祈っていたかった。淡い月の花笑みが、潤んで霞んで見えなくなる。)
(青空が墜ちて死んでしまったら、何処に埋めればいいのだろう。)
イディオ 2020/02/16 (Sun) 20:33 No.4