Mome Wonderland


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(夢寐にも忘れない)
(ベイウィンドウの窓辺に腰掛けて、ただ、ただ、ぼうっとしているだけの、久しぶりにさみしいと感じる夜だった。月明かりを受けて光る広間の噴水が、水晶の花挿しのよう。彼に、泊まっていって、と言おうとも思ったけれど、用事がありそうだからと無意識に気を遣った。首の係った刻限を思えば当然のこととも言える。一方彼女にはなにもできることがなかった。ここ数日をひどく無為に、且つ、有意義に過ごすことに憂き身を窶した。不必要に寄り添いたがり、いつでも指先で彼のローブの裾でも捕まえていなければ落ち着かなかった。明日の朝を境にお別れするかもしれないのは、なにも頭と胴だけの話ではないのだ。尤も、あの小学生のおままごとみたいな女王陛下が、本気で王城に血染めのカーペットを敷きたがるとは到底思えない。であれば、言うに及ばず彼女の心を占める憂慮はひとつしかない。やがて、居ても立ってもいられずに、やはり彼に会いに行くべく――ダイニングテーブルの傍らを、小走りに横切ろうとした時のこと。 "Read me." 命令形のメッセージに、スカートの襞でもつんっと引っ張られたかのように足を止める。いやなざわめきが胸底で蠢くのを感じながらも、一度ページを捲ってしまえば読み進めずにいられなかった。気持ちばかりが急くのに対し、眼孔の中の紫色はうろうろと右往左往するばかりで、効率的に文字を追うことができない。むやみに鼓動が早まる。ああ、ああ私は、なんてことを……。)――……死んでしまいたいほどつらい現実に、彼を呼び起こすの? 私が……。(浮動性の眩暈と共に、すっと体中の血の気が引いていく。突如として現れた赤の女王の、幼さ由来の高い声が蟀谷に突き刺さるようだった。立ち眩みにふらついて、ダイニングチェアの背凭れを片手で掴む。もう片手で打ちひしがれるように額を覆い包むと、自分のものとは思えないほど手の平も指先もひどく冷たい。 何も知らず、悪意すらもなく彼を隷属させてしまっていた私が? 初めて相見えた時になど、彼があまり唯々諾々に従うばかりなのをいいことに、都合良く利用しようとすら企んでしまった私が。夢の中へ逃げ込んで尚、ここでもまた、希死念慮を抱くほどの苦しみを反復させてしまった私が――彼女が彼に見せていたのは、現実から持ち越されてきた延長線上の悪夢だったかもしれないのに?)、なんっにも分かっちゃいなかったわ。なにもかも的外れ、空回り、見当違いもいいところ。……どうして私ってこうなの……。(ああ、また。自己冷嘲のいやな鼻笑いが、品位の欠片もなく吐き出される。小さくも高貴な語り部の言うところによれば、今頃、彼も彼の真実を突き付けられていることだろう。それを思うと、元より白い顔は余計に、蝋の如く青褪めていく。すべての顛末を知った時、現実世界で彼を虐げていた者たちと、ファンタスマゴリアで彼を尻に敷いていた”女王”とで、そこにどんな差異が見出せるというのか。ここでもまた彼が、死んでしまいたいって――そう言って慟哭するなら、なんて声を掛ければいい? どんな顔して会えばいい? どこにも立つ瀬のないような焦燥感に囚われて、頭の中まで真っ白に煙る。やけに鮮明に聞こえる自らの心臓の音が、おそろしい魔物の足音みたい。また、息が、 唇を切りそうなほど強く噛み締める。震える呼気を、呑み込んだ。)――あなたが勝手に、背中を押さないで。(濡れた絹糸のような柔らかな声質が、ひととき鋭い棘を纏う。首が落っこちるのではないかというほど、突然がくりと項垂れる。下を向く。波打つショコラブラウンと、もうほとんど治りかけた膝小僧のかさぶた、湿布薬を貼った足首。それらを見つめながら、大きく、大きく息を吸い込んで、肺底をすべて換気してしまうような深呼吸をした。思い入った決心を眉に集めて、下を向いた瞬間と同じ唐突さで、上を向く。顔を上げる。)私の背中は私が押すわ。彼の背中も。 ……彼って、こっちが引くと急にテンション下がっちゃう殿方なの。だから、……私が押してあげなきゃだめなのよ。(自信がない。どうしたらいいか分からない。こわい、かつての己を回顧した彼に、あのいとしいスカーレットに、もしも畏怖の眼差しで射竦められたら。 だけど。もう一度息を吸って、吐いた。乱れた髪を背中へ払う。)……感謝してるわ、あなたにも、あなたの側近の殿方にも。 あのかたが命を落としてしまう前に、匿ってくださってありがとう。(重ね合わせた両手を腹の上に載せ、恭しくこうべを垂れる。 もう、自らの背を押すことができないだなんて言っていられないのだと、悟っていた。今、自分で自分を奮い立たせなければ、自分で自分の背中を押した気にならなければ。ここで動き出せなければそれこそ、死ぬほど後悔するだろうから。テーブルの上に置き放していた本を手に取り、正真正銘の、女王陛下のもとへと歩み寄る。虚栄の靴はまだ仕上がりには至らず、足取りはぬかるみの中を進むように重たい。それでも歩く。今はまだひとりで。)なんっにも、解決にはなっていないけれどっ! たまたま私が迷い込んでこなかったら、どうするつもりでいらっしゃったの?(王笏を持たないお留守の片手に、紺色の表紙を押し付けるようにして、懇切丁寧に返却した。大人げなかった。それがなに? 真っ当な大人と胸を張って豪語できるほどご立派な人格者、思えばそうそう見たことがない――気がする。すらすらと前向きな言葉遣いで物を言う女王。未来がある。前に進むすべ。無責任な鼓舞だと思った。逃げても甘えてもいいから、私は彼に生きていてほしい。)……ごめんあそばせ、女王陛下。(硬い指先を翻し、精一杯に虚勢を張った。強がっていた。エプロンがなければただの黒いドレスに過ぎない格好で、今度こそ足早にダイニングを横切り、部屋を飛び出す。宵の口特有の、青臭くてぬるい夜風が頬を撫でる。挫いた足首がまだずくずくと鈍く痛む。心はずっとざわめいている。「……ヨハネ様、」 呼び声が、バースデーケーキの蝋燭みたいに吹き消されていった。報せているのに、聴こえるのに、ただの偶然か、奇跡か運命みたいに重なっていたふたりの福音。もう一度、”ここ”にいると報せてほしい。ううん、何度でも。 ――彼に会ったら、謝らなくちゃ。罪を贖ったら、もう同じ過ちは繰り返さない。あなたを苦しめない。どうせ"女王様"ぶるならば、あなたを虐げる者すべてを斬首の刑に処す独裁者の方がいい。)

(他人にはご高説、自分自身ときたら、自分の敵を愛するなんて今生できそうにない。自分の敵は愛せなくても、誰かの傷なら愛おしむことができた。それが他の誰でもない、彼の傷なら尚更だ。だから、たとえ傷の舐め合いみたいになったとしても、一緒に堕ちて、同じ穴の狢になってほしかったのかもしれない。でも今は、もっとシンプルに、難しく考えないで、ただあなたを幸せにしたい。)
ルカ 2020/02/18 (Tue) 16:59 No.14
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