Mome Wonderland


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(相思綺譚)
(〈詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。〉或る書に記された一文を、あたかも全て承知し微笑んでいるように。突如招かれたワンダーランドはいつ何時も、優しき音律に満ち足りていた。中でもいっとう優しく心地良い声を、生涯忘れ得ぬ記憶として持ち帰る気でいた浅はかさを何としよう。かの著述家は、斯くも語った。〈陽の輝きと暴風雨とは、同じ空の異なった表情に過ぎない。運命は甘かれ苦かれ、好ましき糧として役立てよう。〉)

(みずからに降り掛かる定めならばそう、きっと何事も好ましき糧として受諾できた。然れどそれが他者に、己の幸いを望んでくれた愛しいひとに及ぶとなれば話は別で。宝石の欠片を散りばめたような空の中、辛うじて姿をとどめた月の剣が網膜を刺す。窓越し仰ぐ青いひとみはただ、ひとりを慮って筋違いの憂慮を焦がしていた。真に篠突く運命の雨が如何なるものか、なにも知らずに宵を迎えて。今からでも自分に叶う助力はと、屋内を撫でた視線が見つけたものは真理の聖書か。背徳の福音書か、服膺のフェアリーテイルか。吸い寄せられるよう伸びた指は浅慮に、或いは一抹の期待を込めて、見知らぬ書帙を手に取った。精緻な箔押しを為された表紙が、かのひとの眸と似た色をしていた、なんて。そんな些末な切っ掛けも在ってか非ずか、罪なる無知の指をすべらせる。)…………ディオ、……?(綴られた文言の一つ一つがまるで異国の言葉のように、意味を成すことなく脳内で絡まり渦を巻いた。“現実” “裏切り”、 “夢”の 世界。 “愚者”? 無理矢理に言々句々を繋ぎ合わせて、今一度崩れて散らばって。軈てパズルのピースを合わせるかのよう、覚束なく重なった先の実体は。音を忘れた喉笛に深く鋭く突き刺さり、女の気息をいとも容易く奪ったものは。限りなく悪夢に近しい形をした、かなしいほどに紛れなき“真実”であった。満月の夜に言い知れぬ切迫を煽った、あの一声を今この瞬間まで忘れていた訳ではない。ただ此処で出逢った太陽があまりにも目映く、見落としたくない一心で。追憶より今を見つめていたかったなんて、余程愚かな弁明だった。イディオ、Idiot――思えば初めから、不釣り合いな名だと違和を覚えてはいた。もしも愛称が嫌いだと返されたなら、少しくらい口論になっても抗おうと試みたであろう位には。四方や他ならぬ彼が、時には努めてでも陽光の如き笑みを向けてくれた彼が、彼自身を論った評だなどと何故想像の及ぶものだろうか。)……、女王さま。(鮮やかな赤の花色を受け容れたブルーアイズは、状況と照らせば通り相場の困惑で揺れていた。あどけない高圧が鳴りを潜め、純粋な謝意ばかりを宿した君主によって繙かれる内実。おとぎ話の夢はやはり、何処までも優しいもので出来ていたこと。それらが如何に安寧を運んだとて、夢は現をぬりかえられないこと。鎮静と焦燥、本来共存するはずのない二つが胸中で膨らみ鬩ぎ合う。ひどく冷静に事実を呑み込む都度、彼に降り掛かった事実の過酷さが鉛のごとく胸におちて。童話よりも他愛なく、悲劇よりも生々しく、かなしい物語の一片が重力にしたがって足元へ墜ちた。)私、……わたしは、……なんて、(無知だった。“憶えていないのは、とてもさみしいこと”だなんて。 愚かだった。“あなたのことをもっと知りたい”なんて。 思い上がっていた。“私となにも違わない”なんて。 続くはずの音はどれも喉奥で苦く溶け、罪悪感の暗雲が広がれど雫は一滴も落ちてこない。衝動的な戒めのために持ち上がった利き手はしかし、咽喉へ爪を立てる寸前に止まった。指の根にふと触れたのは、今日も首許に光っていたブルーハイアライトオパール。大切なだれかへの、素直な想いを後押しする輝石。)あ、……(震え方を思い出した声帯は濁りもひずみもない、純然たる気付きのソプラノを一音だけ零す。睫がひとたび上下するだけの間を挟むと、あおの双眸はにわかに焦点を定めた。愛しいひとの贈りものはまるで、自責の前に為すべきことを為せと。ひとりではないのだからと、そう訓えるかのようで。――恐らくこの煌めきも、宝物として物理的に尊べるのは今この時のみ。現の世界には持ち帰れないものだろう、けれど。)それが一体何だというの。……あのひとが生きている、それ以上に大切なことなんてないはずだわ。(自己完結の独白を受けて、いとけない紅の花唇は心なしか満足げに笑ったようだった。王笏が運命を指し示して程なく、耳か脳裡を聲が打つ。薄れぬ記憶とよく似た色で、異なる二音を成す呟き。一度はこの手を離れてしまった、けれど今や聞き違えも逃しもしない唯一無二。呼んでいる。私を。確かに認識すると同時、気付けば身体は動いていた。行き先を定めるよりも早く駆け出し、扉に手を掛けた所で今一度だけ振り返る。舞台上より短くも厳かに、貴き女王へ跪いて礼を取った。)……ありがとうございました。(何に対する礼謝なのか、発した当人にも存ぜぬまま。反応を視認する遑も惜しいとばかり、即座に立ち上がっては踵を返して飛び出してゆく。示したばかりの礼節を早速無に帰す無礼さも、どうか今だけ大目に見てほしい。何を置いても、何に代えても、女は往かねばならなかった。一刻も早く、月が消える前に。彼のまことを映すために。尊きこころが、敢無く玻璃と砕け散ってしまう前に。)

(Tu sei il mio dio. 生を見守り、心身に幸いをもたらし、胸底から笑みを灯させる存在。それを神と呼ぶのなら、なにも間違ってなど居やしない。此処で出逢った愛しの君は愚者どころか、掛け替えのない私の――私だけの、神さまだった。)
リア 2020/02/17 (Mon) 19:00 No.10
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