(強く手を握りしめてくれる感触が、男を現に繋ぎ止めるよう。男を蝕む不安定な揺らぎが、仄かに鎮まる。君も、俺も、此処に居る。仮令近しい未来に分かたれてしまうとしても。返す力はいっそ縋るような重さを持っている。ふと以前湖畔に研究室を持つ学者が語っていたことを思い出す。月は黎明を迎えるころ薄らいでいくが、存在そのものが消えるわけではないという話。地上から見えなくなっても、姿を望むことが出来ないだけであり、また夜を迎えれば昊と出逢える。そんな言説を思い描けば眦が微かに濡れた。彼女が意識的に軽く告げてくれると知っていて、男もくすりと笑みを灯す。)攫ってもらいたいよ。いいや、俺が君を攫えればいいのかもしれない。……なんてな、でも、俺はリアの翼を折ってしまうような真似はしたくないんだ。それだけは絶対したくない。(思いのほか強い語調になり、吸い込み損ねた空気が喉で潰れる。少しずつ零れるおんなじ気持ちを縫い留めていられればよかった。そのくせ彼女が差し出してくれる口跡に、何度だって心臓が震えていた。あまりにもしっくりと腑に落ちていく。最初から彼女という存在が胸裏に住んでいたみたいに。)……そうだな。幸せだよ。離別の哀しみがやって来たとしても、リアに逢わなければよかったなんて思わない。(言いきることに躊躇はない。ひどく幼くも率直な情動だった。腹で意識的に苦慮を飼い慣らして、顔を上げる。ようやく男にもやさしい穏やかさが戻って来る。彼女の花笑みに迷いなく頷いた。)わかりきったことを言わないでくれよ。とはいえ言わせたのは俺かな。……そうだよ。こうして涙に溺れそうになるのだって、それなのに幸せだって思うのだってリアへの想い故だ。(彼女が帰って、自分のことを思い出してくれる時、悲しみに沈む顔を想起せせてしまうのは避けたい。彼女は心を痛めてくれるから。そういうひとだから。怖がる必要はないと背を押してもらった心地で、男はかみしめるように微笑んだ。)リアがいてくれて、本当によかった。(実感と共に囁かれた声に迷いはなかった。かなしい気配を吐息と共に押し遣って、中庭を見渡す。ざわめきはやはり遠い。)……もう暫く、此処にいようか。今はまだリアを独占していたい。(つめたい風が亜麻色の髪を、チュールレースを撫でていく。距離を保ったままの男の指先が、何も飾られていない彼女の耳朶を辿り、飾られた勿忘草に触れた。花弁の輪郭を辿る。忘れないで。そんな傲慢を受け止めてもらえると知っていて、なのにざわつく自分の心裡がどうしても不可解だった。浅くかぶりを振る。時計塔の鐘が響くまではせめて、自分だけのお姫様でいて欲しかった。童話にしては残酷で、悲劇にしては甘やかで、いとおしい物語の一片。一度手を下ろしてから、改めて差し伸べる。)手を繋ごう。ひとりとひとりがふたりで互いを確かめられるように。(夜半の逍遥を、もう少しだけ。夜に在って陽光が綻ぶように、紺青の眼差しが真直ぐに彼女を見つめていた。)
イディオ〆 2020/02/14 (Fri) 20:30 No.78