(星の声と循環する水の流れを除いて音という音が消え去った世界に、二挺のか細い弦が鳴る。しばしば休符を挟みながらも繊細な旋律が絶える事は無く、互いが互いを求め合うように交感し、響き合い、感情の奔流を塞き止める手段が存在しない事を知らせていた。歔欷じみた儚さで咽喉を引き攣らせれば、今度は頭を振って不可視の霧を打ち払わんとする。)“夢”などと仰らないで下さい。この世界も、私も、決して夢まぼろしではございません。このヨハネも、……私の心も、間違いなく此処にございます。(縋る眼差しが取り返しのつかない熱を訴え、突然胸の痛みを覚えたかのようにドレスシャツの襟元を片手で押さえる。――この内側を巡る血潮、心臓、己が確かに存在する事の証明。これが夢だとしたら、あんまりではないか。 眩しがるように双眸を細く歪め、咽喉から手が出るほど希求した「幸せ」の一語が耳を打てば、男を満たしたものは何もかもを赦されたかのような安堵にも似た多幸感。衣服の上から肌を掻きむしる風に五指に力を込めれば、枝のごとき血管が手の甲の皮膚に何本も浮かび上がる。彼女の艶やかに光る頬に、白い肌を濡らす情緒の正体に、今すぐ触れて確かめたい。しかし其のための権利を授与されて尚、ある種の自傷行為にも近い禁欲主義が果実へ手を伸ばす事を拒んでいた。)…………、ルカ様。………………ルカ様…………。(小さな貝殻めいた十指によって左右から包み込まれた其れは、彼女の手の中で心臓のようにひとたび動いたであろう。恩赦を受け打ち震えるように、はたまた罰に怯えるように――そして、二つの篝火が福音の引力に吸い寄せられる時、甘い毒を塗った刃のごとき宣告が男の懇願を鋭く断つ。諦観と恍惚の入り交じった視線が彼女の顎先に溜まる液体を捉え、下向きの睫毛が赤い海に光と影を生む。口を噤み、瞼を閉じても、左右の耳穴から煙のように入り込んで思考を侵食する背徳の教唆。目縁に涙を湛えながら此方を見下ろす女性の顔貌は、悲しいかな、凄絶なまでに美しかった。 暫しの沈黙を経て、観念したように息を吐く。眸子は油を流したように濡れて光っている、しかし涙は眼孔の奥に押し留めた。懺悔を解いて彼女の両手からすり抜けようとし、其れが叶えば相手が座す長椅子のへりに右手を掛けながら、脳内で“抜け道”の有効回数をカウントする。“私のためだけを思って行動する”“狼藉を働いてはだめ”――この身を縛る二つの戒律を、己が有する拒否権でもって黙殺するために。天上から糸で吊り上げられる風にして立ち上がれば、正面からベンチの座面に片膝で乗り上げる。彼女の逃げ場を封じるように両手で背もたれを掴み、叶うならば己より低い位置にある紫水晶と視線を通い合わせた数秒後。無防備な肩の後ろに両腕を回し、抱き締めようとした。)……申し訳ございません。(打ちひしがれたような囁きを肩口に落とす。)ルカ様がいらっしゃらない日々など、今の私には耐えられません。(綿のような柔さから始まった両腕に無意識に力が篭った。距離が失われた事により、余所行きの正装に身を包めど隠しきれない薬の匂いがさらに濃度を増したかもしれない。グローブ越しに感じる肩甲骨の硬さと、その上の皮膚の弾力。その手で触れて初めて、彼女の肢体の小柄なこと、丸みや柔らかさ、何よりこうして抱き合う事の何たるかを男は真の意味で知る。不意に腕の力を緩めて顔を起こし、再び互いの瞳を見合わせんとする。その燃え滾る色を目蓋の内側に閉じ込めると同時、愛撫と捕食の中間にあるような接吻を紅唇に擦り付ける事が、叶うだろうか。)私が必ず、ルカ様を幸せにいたします。ですから――今宵。私がルカ様を所望する無作法を、お赦し下さい。(相手の肩に顔を埋め直し、説き伏せるようにして告げる台詞は、その実赦されずとも構わないとすら宣うような盲目の延長線上にあっただろう。決して口約束では済まされない事、己が欲したものが決して容易には手に入らぬ代物である事、理性の底では承知しているつもりでいた。男は夢を現と見粉った、一人の幸福な愚者であった。そして、身分不相応な憧れを抱いた者には、何時しか必ず天罰が下るのだ。)ルカ様……愛しております。
ヨハネ〆 2020/02/16 (Sun) 11:46 No.90