Mome Wonderland


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(瞳の独擅場)
(それから更に五日が過ぎた。ワンダーランドの出口を探すふたりっきりの行進は、差し迫って性急な足取りというよりも、ほとんど犬の散歩みたいに長閑であったかもしれない。ハプニングといえば、風船が木の枝に引っかかったと言って泣きべそを掻く少女と出会ったことくらい。それもまた、「届かないわ。ヨハネ様、そこにしゃがんで。踏み台になるか肩車するかして」で容易く解決するささやかな事件だった。しかし――、)普段着と言っても、一応エプロン”ドレス”だからいいのかしらと思って……。(この五日間における最たる大事件は、今晩起こる。突然の舞踏会開催の報を受けて、ひとまず互いに身支度を、と夕方前に彼と一旦分かれたのだ。ルカはと言えば、とりあえず普段通りの黒いエプロンドレス姿で城を訪れたはいいものの、トランプ兵たちの目は存外厳しかった。あれよあれよと言う間に城の前庭――”物言う花園”へ連行され、お喋りな花々に囃し立てられながら、急拵えのドレスアップと相成った次第である。そのまたしかし、)――……やっぱり、こういう格好はワンダーランドじゃ浮くわね。(「う~~ん」「確かに随分セクシーねぇ」 ルカにとって、ドレスと言えば”こう”だった。本領を発揮してしまった”夜の蝶”を前に、花たちの反応はお世辞にも芳しいとは言えない。「可愛らしさが……キュートが、チャーミングが足りなくないかしらぁ」「リボンが……」「レースが……」――オフショルダーの大きく開いたネックラインには大ぶりのフリルがあしらわれているものの、全体を見ればごくシンプルな黒のマーメイドドレスだ。トランジスタ・グラマーと言えばもはや死語ながら、収縮色によって浮き彫りにされたボディラインにはそれに類するものが見て取れるかもしれない。光沢感とハリを併せ持つ上等なミカドサテンに、脚の付け根から、なにかの断罪みたいな鋭いスリットが入っている。惜しげもなく覗かせた白妙の太腿と、フリルの波間でたぷんとそよぐ胸。花々は「ほんとうにそのドレスでいいの?」と最後の念押しを加える。)……いいのよ。(編み込みアップスタイルの髪に、ゴールドのマジェステを飾りながら言う。)可愛らしいエプロンドレスよりも、こっちの方が慣れてるわ。……元いた世界の……”ルカ”の本来の姿は、こうですもの。(殿方に侍るのが仕事なのだと話したら、彼は軽蔑するだろうか? 誇り高く、聖性を帯びたような、身持ちの固い真っ白いプリンセスラインの方が良かった? 今更思い直すには時間が足りない。もうすぐ舞踏会の幕は上がるだろう。 その時、「あ、」と、何事か思いついたような頓狂な声を上げ、今一度花々に目を向けた。――今日はまだ、初めて出会うファンタスマゴリアの住人へ”ご挨拶”ができていないから。膨らんだつぼみが、焦れったいほど緩慢に、ふっくらと花開いていくように微笑んだ。)……はじめまして、ルカです。(耳横に垂れた後れ毛を、指の先でなぞる。腹の上に両手を重ね合わせ、静々と一礼を見せたなら、丁度”彼”も花園へと足を踏み入れる頃だろうか。)
ルカ 2020/02/08 (Sat) 00:49 No.1
(――焦っていた。とは、あまり云えない。昼と夜が規則正しく順繰りに通り過ぎ、最初に与えられた猶予が刻々と嵩を減らしていく中、男が講じた策は尽く徒労に終わったというのに。白昼堂々と命ぜられた踏み台役に喜び勇んで従う程度には男の方は相も変わらず、恐らく彼女にしても同様の事が云えたのではないかと思う。 実のところ、引っ掛かっていた。五日前の、元いた世界を見つめる空虚な瞳が。どこか自暴自棄な面影が脳裏を過ぎる度、後ろ髪を引かれたように歩みが止まる。とはいえ本来は存外身軽な人間である事に相違無く――)ご無沙汰しております、ミスター。舞踏会のタキシードを貸していただけますか。(相手と別れた直後、早速男は馴染みの貸衣装屋を訪れた。衣装室には早くも何着か借りられていった形跡が散見されたが、常連たる男の一張羅はしっかりと残されていた。ドレスシャツに黒いベストとジャケットを纏った、正統派のピークドラペルタキシード。胸ポケットには白いポケットチーフをあしらい、マットな質感の外套から細長く直線的な足がすらりと伸びる。襟元に黒い蝶ネクタイを締め、目元に掛かる長さの前髪をオールバックに仕立てる最中、ずんぐりと小柄な身体に背丈よりも高いシルクハットを被った店主が顔を見せた。「いつになく入念ですな」珍しいものを見る顔に、普段通りの微笑みでもって応える。)“女王様”がお待ちですので。(――店主に礼を告げ、馬車で会場へ向かった。彼女は“物言う花園”にいるらしい。トランプ兵に連れられ城門を通れば、身体に針金を通されたように自然と背筋が伸びる。男を見て示し合わせたように静まり返った花園への道中、心臓が常よりも性急な鼓動を打っている事に気がついた。つとめて控えめな革靴の足音を鳴らしながら、花のアーチを続けて潜る。一つ、二つ、三つ――。「きた、きた!」足元で花がそよぐ。しかし色めく囁き声は立ち止まった男の耳に届いていなかった。花園に舞い降りた夜行性の蝶を見つけたから。)ルカ様、……(たっぷり数秒の無音を経て、呼吸の仕方を思い出したらしい唇がはくりと動く。花園で男を待ち受けていたのは、男の知る彼女であって男の知っている彼女では無かった。扇情的なマーメイドドレスを着こなした女王の艶姿。さながら黒揚羽が己の存ぜぬところで蛹から羽化したかのように、彩られた瞼が、曲線美の強調されたシルエットが、スリットから覗く色気が、黄昏の花園においてあらゆる意味で異質な存在感を放っている。 赤い視線が磔にされたように動かない。驚嘆と情動、そして戸惑いすら滲むほど、)……失礼いたしました。普段と雰囲気が変わっていて、見蕩れてしまったものですから……。(妖しく、衝撃的で、“美しい”。初歩的な賛辞すら取り落とすほどぎこちない口唇の行先を、物言わぬ花たちが見守っていた。)
ヨハネ 2020/02/09 (Sun) 01:11 No.14
(どきどきしていた。ドレスで着飾った姿を披露するのに、こんなにも動悸がしたのはいつ以来だろう。否、キャバクラで働き始めた当初に感じていた、お客人のテーブルに着いた時のいやな緊張を伴ったそれとは似ても似つかない。この場合の”動悸”は、心臓の鼓動に不快感、不安感を自覚する状態のことじゃない。もっと単純に、胸が高鳴る、というのだ。一面に敷かれた花弁のカーペットの上を、そっと踏み締めながらやってくる足音。振り向いた刹那、胸が、 ”高鳴る”。)…………。(つややかなグロッシーネイルに塗り直された赤い十指の先が、揃いの色した唇をはっと覆い隠す。彼の方も口を噤んでしまえば、そこに残るはおしゃまなシルバー・プリペットがひゅーひゅーと草笛を吹く音だけ。 誰かと思っちゃった。わけじゃない。この身に余るほどの熱情を孕んで見つめてくる瞳を、他の殿方と見間違えるはずがない。ただ、これまでは、どこか見すぼらしい印象すら抱かせるローブに、野暮ったいような猫背の立ち姿、長い前髪ばかりが主張される殿方だったものだから。こんなにも魅力的な紳士に様変わりしてしまうだなんて、思っても見なかった。口許に宛がわれていた両手を、そろそろと左右の頬へと滑らせ、赤らむ顔色を隠しながら口を開く。)……あなたの方こそ……お見逸れいたしましたわ、…………すっごく素敵よ、かっこいいわ。ヨハネ様。(見蕩れてしまった。「ほんとのほんとよ」と言い募る声音も、少し頑固そうな響きに相成るほど。参ったように柳眉の角度を落とし、気の利いた賛辞も贈ることができずに、あえかに微笑んだ。魅了したかったはずが返り討ちに遭うだなんて。徐に、自らの胸元をほぼ唯一飾っていた白薔薇のコサージュを外す。叶うなら、私に相応しいあなたのタキシードに、そっと付け替えてあげたくて。)……女性のエスコートの仕方はご存知?(オープントゥハイヒールを履くのも久し振りだ。十センチの底上げを図っても彼の上背にはまるで届かない。暴力的に尖った踵で花弁を淡く蹴散らしながら、歩み寄る。気を取り直したように――ほんとうはちっとも取り直せていないけれど――問いかける声は睦言にも似てウェット、そして、ヴァイオリンの弦がわななくようにどこか切ない。ドレスグローブすら纏わない素肌の両手を伸べ、彼の片腕を胸に抱き込むことが叶うかどうか、果たして。)私の知っているエスコートのされ方は、"こう"なの。(コート、ソックス、スカート、一枚一枚服を脱いでいくみたいに少しずつ知らせたい。知らしめたいのかもしれない。軽蔑を、偏見を、物ともせずに跳ね返す気概はないけれど、もし拒まれれば「つれないかたね」と言い残して適切な距離感を取り戻そう。すべてを受け容れてほしいだなんて、ほんとうに思わない。「まずはどちらへ案内してくださるの?」 小首を傾げれば、瞼を染めるアイシャドウが抜け目なく輝いて、瞳の表面にも艶々とした光沢を生んで見せてくれるだろう。)
ルカ 2020/02/09 (Sun) 03:52 No.15
(瑞々しい花片の絨毯。空気まで色付いて見えるような華やかな香気。極彩に咲き乱れる花園の中心で出会った二つの無彩色は、さて、何という名前の花になるだろう。色違いのスクリーンに互いを映じ、瞬きすらも呼応する数拍。永遠のような一刹那を経て、世界の音が、匂いが、温度が、戻る。)……お褒めいただきまして光栄です。少しでもルカ様に見合うよう支度をしてまいりましたが……敵いようがございませんでした。……、お美しい。(率直な賛辞に目を伏せて笑った。くすぐったげな間を置いた後、棘のような睫毛を持ち上げ向き直る。身支度も心の支度も万全に整えてきた筈が、まさか舞踏会と聞いて妖艶な黒蝶に迎えられるとは想像するまい。本領を垣間見たというより見せつけられたような感覚だ。純粋な感想をまろばす口許へ手を翳した時、敷き詰められた花弁を踏み締め彼女が歩いてくる。催眠にかけられたように微動だに出来ず、滑らかな手の仕草を見詰めていれば、いつの間にか男の左胸に咲いた純白の花。何も言われぬまま白いグローブに覆われた手を緩々と持ち上げ、まるで心臓に触れるかのような指つきで花弁のふちをなぞろうとした、その瞬間であった。)は、――(無防備な腕が呆気なく豊満な胸元へ引き寄せられる。その手馴れた動作、さらに柔く温かい感触が肉の薄い肘に当たった気がして、痺れるという動詞では生易しいような電気が脳の奥で弾けた。小さなギャラリーは緑色の手で顔ばせを覆ったり、嬉嬉として二人の様子を囃し立てたりと様々。当の男はといえば、表情を隠すフードも前髪も今は無く、中々に間の抜けた面をしていた事であろう。眼窩から紅玉が零れ落ちそうなほど目を見広げ硬直していたが、上向く語尾が至近距離で耳を擽れば、やや遅れて我に返った風な瞬きを打ち。)……まずは……、大広間で退屈されている女王陛下のために、“ご挨拶”に参りましょう。 それから、(軽く曲がったストローのように上体を半ば傾げた姿勢のまま唇を舐め、答えた。短い時間の間にさんざ掻き乱されペースト状になりかけた心情からなけなしの理性を取り出し、跳び上がった眉を元の高度に呼び戻す。 途端、形の良い谷間から己が腕を引き抜いて、そのまま滑らかなコットンの掌をすいと彼女の前に差し出そうとする。先程の相手を真似る風に小首を傾げ、)私が存じ上げるエスコートのし方は、“こう”でございます。(と、言い返した。赤く光る双眸に隠された思惑はというと、何かと寂しん坊な城主が懇ろな姿を目にすれば、五日後と言わず今夜中にでも首を刎られるかもしれないという懸念が一つ。それから単純に、男自身の平常心が続く気がしなかったせいである。今回の件が“拒否権”の発動に該当するか否かは我が主の判断に任せよう。何はともあれ姦しい花々の園を抜け出し、まずは舞踏会の会場たる大広間を目指すとしよう。)ルカ様。ワルツのステップはご存知ですか?(煌びやかな空間に到着したら一度彼女を壁際に誘導し、確認を。面を付き合わせて会釈するのではなく、一組の紳士淑女として宴に華を添えるのが舞踏会流の“ご挨拶”だ。)
ヨハネ 2020/02/09 (Sun) 19:20 No.19
(それはこっちの台詞よ――食い下がろうと開きかけた口を渋々噤む。言葉の限界を知る。だから代わりに、下唇の裏を柔らかく噛み締めるようにはにかみながら、彼に白薔薇を贈ろう。ワンポイントを失くした胸元のフリルは、打って代わって黒薔薇の花弁のよう。あなたに相応しい私を誇示する胆だったのに、まんまと逆手に取られてしまったような、心地良い敗北感。あなたは私に相応しい。そして、私はあくまであなたのものだ。)殿方からお褒めに与って、こんなに嬉しかったことないわ。どうもありがとう。……こういう格好、ヨハネ様ははしたないと思われるんじゃないかって、お嫌いかしらって、……不安だったの。(”美しい”。決して言われ慣れていないわけじゃない、三流の褒め言葉にどうして胸の奥底が熱く泡立つ。目のふちが、アイシャドウとは別のローズアニリンに斯くも楚々として染まった。なんて照れ臭いのかしら? 高慢で自信家、左様な女王像からかけ離れた”本当の考え”を、ほんの小さな声で言い足した。されど、何も聞かなければ何も始まらなかった過日と同じ。何も行動に移さなければ、彼の体の心の感触も反応すらも、量ることはできない。手に取って確認したくて、スプーンでふるんと掬い取れそうなほど軟らかい中に、彼の片腕を導いた。存外よく動作する彼の顔が、今日ばかりはフードにも長い前髪にも遮られることなく、おまけに普段より十センチも近い距離にある。それが、あんまり正直に狼狽えてくれるものだから、)……ふふ、 うふふふっ、す、すごい顔してたわ……ヨハネ様ったら。ふっ、ふ、(この手から逃げられて尚、破顔した。無邪気に喜ぶ子どものように、ころころとした笑い声を次から次に口唇から追い出して、ともすれば目尻に引いた濃紫色のアイラインまで潤んできてしまうほど。初めて彼の前で”微笑み”の範疇を逸脱して笑い、初めて彼の方から、手を差し出される。嬉しかった。だから、これは拒否権の行使としては、ノーカウントとしてあげましょう。本物の紳士然としてスマートな仕草を、「あら、女性のエスコートに慣れてらっしゃるのね?」とわざとらしく眇めた目でねめつけながら、白いグローブの上へ、丁寧に揃えた五指を委ねる。一回り以上も大きさの違う掌。不思議な感慨を咀嚼するように少し黙って、睫毛を俯け、彼がこの手を柔らかく握り込んでくれるまでは、何もしないでいよう。花園を抜ける手前、さりげなく花々たちのことを振り返り、密やかなウインクを飛ばす。草笛の音を返事として受け取ったなら、あとは大広間まで彼の手に引かれるがままだ。次はふたりの方が花になる番。ただし、ひとまずは壁の。)私、ワルツ、踊ったことないの。素敵な楽団がいらっしゃってるって、お花さん方が教えてくださいましたけれど……音楽にも、詳しくないわ。踊りのひとつやふたつ、嗜んでいて当然の淑女だと思われていたかしら?(また少し、口ごもった。生まれて初めての舞踏会に駆り出されたルカは、実際のところ女王どころか淑女ですらもない。彼の方がよほど場慣れしていると見えるから、「……今晩は、あなたのリードとエスコートに身を任せるわ」。)
ルカ 2020/02/09 (Sun) 22:34 No.24
いいえ、いいえ。少々意表を突かれましたが、とても似合っていらっしゃいます。華やかな髪も……素敵です。(と、未だ拙さが残る口唇を動かした。途中、胸元の開いたドレスが視界に入ると、ぎくりとして足許の植物に視線を滑らせる。身も蓋もない話をすれば、お嫌いではないが少しだけ目の遣り場に困る、とは。目は口ほどに物を言うもので、ころころ転がる鈴の音を聞いた双眸はやはり皿のように丸く、)…………。(観念した風に沈黙するばかり。色々な意味で血が上った顔ばせは、まるでいつぞやの彼女のようでもあった。とはいえ舞踏会に招かれる度に婦人のお相手役を務めてきた経験は決して無駄にはなっていないらしい。「紳士の“嗜み”でございますので」と返す微笑みが変な意味合いに聞こえなければいいけれど。 蝶のごとく掌に着地した裸の手指を、蕾が閉じるような柔らかさで包むように握り込む。そうして再び甘やかな目色を紫水晶に向け、コーヒーにマシュマロを浮かべるようにほろりと眦を綻ばせたならば、花々の祝福を背に受けながら彼女の手を引き舞踏会に連れ出そう。)ファンタスマゴリアでは時々舞踏会が催されますが、そうした機会が無ければ馴染みが薄くともご無理は無いでしょう。 お任せ下さい。私が舞踏会の楽しみ方を教えてご覧にいれましょう。(顎に手を当て、束の間思案の素振り。夜更け前のダンスホールはまださほど賑わっておらず、奏でられる音楽も場の雰囲気を考慮してゆったりとしたテンポの選曲が多い。それこそステップを踏む紳士淑女も壇上の楽団も、まずは準備運動ないし“ご挨拶”程度に、といったところだろう。元来前向きな思考回路の持ち主であるからして、軽く頷く所作に取り繕うような気配は無い。落ち着き払って胸に掌を当てたなら、まずは人目につかない壁際で手の位置や基本のステップを一つずつ丁寧に教えていこう。「私の靴を踏むと思って」「……そう、お上手」。普段の行いが行いであるだけに助言がどう響くかは分からぬけれど、実際には彼女のヒールが床に落ちる寸前に素早く躱すだろうから悲鳴が響く事も無い。そうして、スリットから覗く足さばきが幾らか板についてきた頃合い。)……音楽が変わったら参りましょうか。準備はよろしいですか?(頭を傾げ、普段より近い高度にある面差しを窺うようにしながら問うた。彼女がもう少し練習をご所望とあれば快く応じ、双方の準備が整ったところで出番を待つ。やがて音楽が鳴り止んだなら、先の踊り手と入れ替わるようにして明るいシャンデリアの下へ。鹿の指揮者がタクトを振り上げる刹那、)私についてきて。(囁いて、繋いでいた左手を引き、肩甲骨を右手で抱くようにして支える。歩幅は小柄なパートナーに合わせて小さめに。両腕で、爪先で、腰つきで、誘導するように身体を動かし、あるいは言葉の代わりに眼差しで合図して。男の口許には絶えず笑みが踊っていたけれど、当の彼女は三拍子の旋律に身を委ねられていたかどうか。)
ヨハネ 2020/02/11 (Tue) 15:05 No.40
(首の側面にやおら添わせた手の、薬指だけがツ、っと動いて自らのうなじを撫でる。色の付いていないまっさらな賛辞がくすぐったくて、「ふふ」とまた笑ってしまう。無色のそれの代わりに、血の色を濃く透かしたかんばせがいとおしい。殿方の視線がさりげなく胸を一瞥すると、見られている側にとっては存外丸分かりなものだ。男心は踏み躙るものではないから、含みのある沈黙と共に小首を傾げてみせる。大きな掌がこの手を取る。どこまでも緻密で優しい手付き。睫毛を少し擡げると、蕩けてしまいそうに甘く柔らかい円環が、その瞳の中央に鎮座している。この情愛的なスカーレットの眼下に晒された女はきっと誰しも、大事にされている、と思って浮つくのだろう。「……妬けちゃうわ。」 ”嗜み”がてら、そういう顔を今まで一体何人に上るご婦人へ向けてきたのかしらね?とは、とても聞けなかった。)……今までで一番頼もしく感じるわ。(ダンスホールの雰囲気は独特だった。闌をとうに過ぎたあとの余響が、長く尾を引いてずっと続いているような閑雅な賑やかさ。低俗な繁華街に慣れた身は、どこか肩身が狭い。お任せくださいと言い切った彼の姿に安堵して、眉を下げ、ぎこちないながらに手ほどきを受ける。もしもピンヒールで彼の爪先を踏んづけてしまったなら、ほんとうに粉砕してしまいかねない。それが冗談とも付かないのが妙に面白くて、「それはヨハネ様の私欲でしょう?」とからかった。記憶力には自信があるけれど、身体を動かすのは不得手だ。いよいよとなってから調子を尋ねられれば、隙のない女王の顔貌だなんて取り繕う余裕もなくて、)緊張する。(へらりと眦を下げた。不安だったわけじゃない、ただほんとうにそれだけ。覚束ない左手が、彼の右上腕へそっと降り立つ。こうやって向かい合っていると、十センチのヒールを以てしても、彼のかんばせは常に見仰ぎざるを得ない高度にある。 ゆっくりとまばたきをする。”私についてきて”。急に胸が詰まる。もう憶えた彼の香りが、はっきり判別できるほど近くに寄り添っている。――見上げていた目を、ぱっという音がしそうなほど急に足元へ落とした。)…………ヨハネ様、(真実、彼のリードに身を委ねているばかりで、ワルツの旋律などろくに耳に入ってこない。故に、間が持たないような気まずさを感じて、つい彼の名前を呼んだ。もう癖のようなものにもなりつつある。おかげで、呼んでしまったあとになってから、何を話そうかと性急に頭の引き出しを穿り返す羽目になる。)もう十日も経つのね。……元いた世界に帰るにしても、ふたり揃って首を刎られるにしても、きっといい思い出になるわ。あなたとワルツを踊ったこと。(自分の爪先よりも、彼のすらりと長い脚があまり水際立ったステップを踏むものだから感心して、よっぽど気を取られていた。そんなことだから時折自らの足さばきは乱しながらも、ぽつぽつと呟く声色は不思議と落ち着いている。なんだかほんとうに夢見心地という気分だった。舞踏会の雰囲気に呑まれたのかもしれない。「まだ私のこと好き?」 だから、脈絡のない一コマ撮りの夢みたいに唐突に問いかける。小さな頭は終始俯いていて、彼の目からはせいぜいルカの旋毛の形くらいしか確認することはできないだろう。)……帰らないでほしい、とは思ってくださらないの?
ルカ 2020/02/11 (Tue) 18:04 No.45
(幼気なほどの心情を吐露する花唇は、高慢にして崇高な“女王”の其れには程遠い。にも関わらずこれほどまでに感性の柔らかい部分が擽られてならないのは何故だろう。磨き抜かれたフロアは音楽の始まりを待つ男女を水面のように映し出し、瀟洒なシャンデリアが砕かれた月光のごとき煌めきを降り注がせている。さながら大理石の湖上。だとすれば二人は水鳥の群れに混じったブラックスワンといったところか。黒い革の靴底で床材を擦りながら、)…………はい。ルカ様。(優雅なBGMに紛れる声量で返す。呼ばれた名に即座に反応し、もう一つの福音を差し出す行為も、癖を通り越して細胞に刻み付けられた習性のようなものになってきた。頭一つ分低い位置にある旋毛を見下ろす面差しは仮面のように変わり映えせず、品行方正な紳士の笑み顔を纏い続けている。相変わらずステップを先導する風に下半身でテンポを速めに取りつつ、聴覚は雫のように降り落ちる音色を拾っていた。)ルカ様がクリケットのボールになってしまわれる未来だけは避けたく存じますが……そのように言っていただけて光栄です。 私も、憶えております。貴方様と踊った事、髪の香り、指の細さ、貴女様の……全て。(あくまでもワルツを踊る一組の紳士淑女を演じ続けながら、紡ぐ囁きは旋律に乗せるがごとく滑らかで、されども睦言めいた熱っぽさを孕んでいた。男もまた、十日間“奉仕”を尽くした女性と一曲を共にする誉にある種の陶酔を覚えていたのかもしれない。 ゆえにこそ、死角から差し向けられた問いに今度は男が喉を詰まらせる番だった。大広間を満たす生演奏の交響が、急速に遠のいていく。さらに男が口を開く前に重ねられた追撃。つい先ほどまで拙さが残るステップを踏んでいた彼女に突如として急所を踏み抜かれた感覚。)――、(左手に無意識に力が入り、内側の繊手を締め付ける。撹乱される思考に気を取られて足許が疎かになった。最早惰性で稼働している爪先を斜め後方へと引いた矢先、相方に合わせて低めに設定していた重心がくらりと傾く。驚いた風にスカーレットを見張った時には既に遅く、パートナー共々後ろに倒れ込み――そうになったところをすんでのところで踏ん張って、己を基軸に彼女ごと身体の向きを回転させる事で大胆なナチュラル・ターンに見せかけようとした。相手からすれば急に腕を強く引っ張られ、あまつさえヒールが床から浮き上がり、決して快適とは云えない数瞬であったかもしれない。男の心臓も早鐘を打っていた。 酸素を求めるように唇を動かしかけると同時、最後のハーモニーが鳴り響いて夢の幕引きを物語る。入れ替わりのインターバルに入っても男はダンスフロアの片隅に立ち尽くしたまま、丸まりかけていた背筋を伸ばし直角に頭を下げた。)っ……申し訳ございません。……お怪我はございませんか、ルカ様。(おずおずと顔を上げて問う。ひどく強引なターンだった。着地の際に運悪く足を捻ったりしていたとしてもおかしくない。未だ若干取り乱した風に眉根を擦り合わせ、ほつれて額に垂れた一房を掻き上げる。)
ヨハネ 2020/02/12 (Wed) 01:32 No.51
(”ここ”では、夢の住人は彼で、客人は彼女で、いつもとあべこべなのだった。店先で手を振るのは彼、家路に着くのは彼女の方。彼に夢をみせてあげられるだなんて、とんだ思い上がりだったのだ。フロアに浮かんだ微塵物――もしかすると、妖精の鱗粉か何かかもしれない――にシャンデリアの光が幾筋も射し込んで、桃色や薄紫色の横雲に見えた。ほんとうに夢のような空間で、福音を報せ合えば、幸せかも、と思ったりする。彼女は一夜の客人に、朝日が昇れば自分とのことは忘れてくれるよう教戒してすらいたというのに。憶えていてと彼に願い、憶えていると彼から誓われ、欣々然とする。優渥というよりもう少し、艶めかしいような彼の声音に耳のふちが熱くなる。)っぁ、……きゃあ……っ!(けれど、一番聞きたかったことは結局聞けず終いだった。どんなに軟らかいプディングでも握り込んでいるみたいな握力で包まれていた右手が、急に痛みを訴える。発泡性のぱちぱちした驚愕を目色に表し、顔を上げる――や否や、振り回されるようなナチュラル・ターン。ヒールの踵が浮き、視線は旋回し、ナチュラルとは名ばかりの手荒いステップに見舞われる。突然のことに、履き慣れたヒールの足首も着地の瞬間かくりと折れ曲がった。彼の上腕に添えるばかりだった左手は支えを求めてきつく握られ、貸し衣装にひどい皺を生んでしまったかもしれない。 やがて、フロアの片隅で起こった小さなアクシデントなど露知らず、ひとまずの"ご挨拶"を終えた紳士淑女たちが壁際へ捌けていく。つい、彼から一歩距離を取った。急に玉砕したような居た堪れなさを感じたのだ。)だっ……大丈夫よ、……、(最敬礼する青い髪をしどろもどろに見下ろしながら、反射的にそう言う。遠慮がちに持ち上がった赤い視線と視線がぶつかったなら、またしても"つい"、そっぽを向いてしまうだろう。剥き出しの首筋を、内から滲み出てくるような羞恥心が淡く赤く染めていく。――変なこと聞いてごめんなさい。斜め下に顔を背けたまま、小さく唇を割って、言いかける。けど、やめた。)……嘘。……大丈夫じゃないわ。あなたのせいで、ちょっと…………痛いわ。(無論、軽く捻った右足首のことじゃない。品の良いざわめきの中でも、容易く掻き消されてしまいそうなか細い声で彼をなじった。先ほどまでとは打って変わって、落ち着きのない片掌が、自らの対岸の肘辺りを撫でさするようにして触っている。脚が内股に狭くなって、ふたつの膝小僧もこつりと頭を突き合わせる。左手で書いた八の字みたいに歪んだ眉は、さんざ拗ね返って、遂には泣き出すんじゃないかという有様だ。背けたままのかんばせから、上目だけで彼の額を仰ぐ。)ほら、目立っているから……ひとまず、場所を移しましょう? 中庭はいかが? それとも、ラウンジの方がいいかしら。(ダンスフロアでいつまでも立ち話をしているふたりの姿が、些か悪目立ちの様相を見せ始める頃合い。年甲斐もないつむじ曲がりを振り払うように、ひとたびかぶりを振った。それから、やんわりと彼に移動を促そう。左脚に体重を載せていれば、少しくらい歩くのには支障ない。)
ルカ 2020/02/12 (Wed) 06:32 No.52
(一度傾いたグラスの中身は戻らない。仮にグラスそのものは倒れる前に立て直す事が出来たとしても。一歩分開いた空白を咄嗟に詰めかけて止めた。彼女が後ずさっただけだというのに、不意に突き飛ばされたかのごとく胸が軋んだ。張り詰めたような眼差しも、黒目がちのバイオレットを発見するすんでのところで逸らされてしまう。いよいよどうしようもなくなり、途方に暮れた風に口を閉ざして立ち尽くす。ホールに出入りする人々が一向に動く気配のない痩身に気がかりそうな一瞥を投げかけていく。)……申し訳ございません。すぐに処置を……、(この期に及んで男は女心の何たるかを理解し得なかった。再三頭を下げ、薄い口唇を割った生真面目な応答も、彼女の顔ばせを見取った途端に霧散する。相手の“痛み”が伝染したかのように唇を食めば、沈んだ眉尻の重みでスカーレットが翳りを帯びた。怪我を負ったかのように力無く垂れ下がった右腕の皺を、もう片方の手でくしゃりと押さえる。そうして木偶の坊のように其処に突っ立った後、)……ラウンジの方が近いですが、身体を休めるなら静かな中庭がよろしいかと。……ルカ様、どうかご無理はなさらないで下さい。(のろのろと顎を引いた。悪夢を見た直後のように、脳内は以前として薄らと靄がかかっている。常の薄ら笑み一つ飼い慣らせやしないが、つとめて冷静な口調で答えると大広間の出口を一瞥した。彼女が壁際に来るようにして歩調を合わせながら移動する最中、今度は気遣わしげな視線を左右非対称の足取り目掛けて注ぐ。彼女の身体を横抱きにでもしてホールから連れ去ればよかったのかもしれない。だが不用意な遠慮が心の隙間に忍び込めば、上体を屈める風にして顔を寄せ、蛇足のような憂慮を取り出すのが関の山であった――。)そちらにお座り下さい。(宵の口の中庭は宴から切り離されたかのように静まり返り、空気はしっとりと潤んでいた。噴水前の白いガーデンベンチで休むように促し、男の方は一旦相手に背を向け、噴水から迸る水でポケットチーフを濡らす。それから戻ってきて片膝を立てるような具合に屈み、「痛めた方の足を出していただけますか」と尋ね、右の足首に冷たいリネンを宛がう事は叶うだろうか。いずれにせよ立ち上がる気配は無く、俯いて細い息を地べたに落とす。)……不甲斐ないところをお見せいたしました。(押し殺したような声色であったが、それを掻き消す賑やかな植物は此処にはいない。瞼を伏せ、こうべを垂れたままおもむろに腰を上げる。)今も……ルカ様をお慕い申し上げております。この身をもってルカ様の望みに応えたいと。ですが、今の私にはそれが儘ならぬのです。どうすれば貴女様を幸せにできるのか、分からない……。(半月と満月のあわいにある光源が猫背のタキシードを淡く照らす。見下ろす視線は仄暗い色に濡れていた。淑女をリードする完璧な紳士の佇まいは“女王”のために誂えた仮の姿に過ぎない。腰の両隣に従えた手を、強く握り締める。)……ルカ様は、私に何を望んでいらっしゃるのですか。
ヨハネ 2020/02/13 (Thu) 18:25 No.66
(磁力線が、同じ極同士で反発し合う性質にも似たふたりだった。相互に働いた斥力を、一方的に突き放されたと勘違いして、ふたりして勝手に傷付くんだろう。申し訳ございません、と謝られるよりも、ありがとうございます、とはにかんでくれる彼のことが好きだった。薄い唇の輪郭が噛み潰されるのを、今はもうこの心に安堵さえ齎してくれるスカーレットが曇るのを、ほとんど同じような表情でもって見返してしまう。左右の蟀谷をぎりぎりとネジで締め上げられているみたいな罪悪感。捻った右足なんかより、ずっと痛い。この期に及んでこちらのことばかり慮る心遣いにすら胸が軋んだ。彼の方こそ、怪我をなさっていないかしら――そんなふうに憂慮を返すことすらできなかった己の狭量に、何度目の幻滅を抱くのだ。 少しずつ腫れ出して、熱を持った足首を慰めるポケットチーフの冷たさ。それが、数日前に脛へ触れた、憶えたはずの彼の唇の温度も感触も消し去っていってしまうようで、言い様もなくさみしかった。)――ただ、帰らないでほしい、って言ってほしかっただけよ。(どっちつかずの月明かりに後ろ頭を照らされた、彼の姿を見上げる。翳った灰色の顔貌の中で、やはり瞳だけが煌々と赤かった。潤んだつやを含んでいるようにも見えた。数瞬以上も見つめ続けていられなくて、結局またすぐに逃げる。俯く。)ヨハネ様に望まれることこそが、私の望みでもあるんですもの。(今も尚慕っていると、そう聞けて嬉しかった。嬉しかった、ただそれだけの単純明快な感情に支配される。湿っぽく、如何にも女らしい涙声が、喉奥から搾りかすみたいに這い出てくる。自分でも、あんまりにも急で、えっと思って片手を口許に宛がう。あとからあとから、勝手に出てきて止まらない。は、っと、無意識に呼吸が急く。)っなのに……私の方から、望んでしまいそうになるのよ。あなたが私を欲しがらなくても、"対価"じゃなくても、一方的に。(天を星がゆっくりと滑走する音が耳の奥に聴こえてきそうな、そのくらいしんとした、孤独な夜中だった。星の音も、噴水の水が延々と循環する音も、ノイズと呼ぶにはあまりにも力不足だ。上顎の裏が凝って痛いような熱さを孕んでいる。鼓動が忙しなく、息苦しいほどで、空いた片手で胸元のフリルを握り潰す。ブレーキを踏んだつもりが、焦って踏み違えたのはアクセルだった、そういう焦燥感だった。)――あなたのこと、もしこのまま、好きになってしまったらどうしよう? でもそれは私のためにならないからって、あなたは尚更私のこと、欲しがってはくれなくなるでしょう? 私が私のためを思って行動しろって言ったから。逆らってまで、欲しがらないでしょう。言ってること支離滅裂だって、自分でも分かってるけどっ……こんな”ご主人様”じゃ、期待外れっ?(吐き捨てるような声色は、俯いた首の角度と平行に、彼女のヒールの爪先辺りに落下した。 自暴自棄になることもあれば、存外”甘えた”で、女っぽい癇癪持ちですらあって、多分、とても単純に恋にも落ちる。吉本成果は、そういう普通の女だった。)
ルカ 2020/02/13 (Thu) 20:12 No.67
(ぽつりと降り落ちた声は、男の赤い水面に波紋のごとき驚愕を広げた。同時に一つの納得が腑に落ちて、それゆえに何も言い返せず、微かに身動ぎする肢体だけが明確な反応を示す。男が無言で彼女を見下ろす間にも、言葉の雨は急速に勢いを増し、次第に洪水の予兆すら声色や仕草から観測出来るようになっていった。二人がいる夜は時間の流れを感じさせないほどの静寂に支配されており、肋骨を内側から圧迫する鼓動ばかりが今この瞬間も世界が動いている事を教えてくれた。喉仏が上下に蠢く。相手は他の何者でもない“彼女”だ。斯くも殊勝で切実な台詞を重ねられて、歓びが湧き起こらない筈が無い。しかし俯いた顔ばせが宿す表情は、歓喜や充足のそれではなく、寧ろ痛ましげに歪められた其れであった。)……“期待外れ”なのは、恐らくこのヨハネの方でございます。(ベンチの向こうの空虚に目を向け、抑揚に欠けた声調で告げた。薄暗がりの足許に月下美人がたった一輪咲いている。)最初は、貴女様と出逢えた事こそ至上の幸福だと信じておりました。貴女様のご命令に従い、貴女様のためを思って行動するだけで、この上なく満たされる心地がしておりました。……ですが、今の私は、それだけでは物足りぬのです。(眉間に皺を寄せ、瞼の帳を音も無く下ろした。男の眼裏には今もなお、月光の下で一人佇む彼女の姿が焼き付いている。過日の確信を自らの口で打ち消すと、頭痛を宥める時のように額を指先で押さえた。)どうしたらルカ様を幸せにできるのか、今の私には見当もつきません。それどころか、ルカ様に私をどうしてほしいのか……一体ルカ様をどうしてしまいたいのかも、分からなくなる……。(続ける男の声もまた、途中から弦が震えるようなか細い切迫を訴え始める。奥歯を強く噛み、語尾を小さく磨り潰した。徹底的に己を支配してほしい。己の全てを彼女に捧げたい。だが後数日も経てば、彼女はファンタスマゴリアから消えてしまう。ならば、この私欲にまみれた卑しい心を何処に遣ればいいというのか。 再び目を開け、熱で潤んだ瞳を彼女へと向かわせる。彼女と出会う前の世界は、確かに男にとって満ち足りたものだった。寧ろ男の世界は、彼女と出会って初めて“欠乏”を知ったのだ。)「帰らないでほしい」と打ち明ければ、却ってお別れが近づいている事実を突き付けられてしまいそうで……申し上げられませんでした。――後生でございます。どうか、欲しがってほしいなどと仰らないで下さい。そのような事を言われたら、私もルカ様の従順な僕ではいられなくなってしまいます。(懇願する声は、このような閑静な中庭でなければ間違いなく掻き消される程度に掠れていた。その場に崩れ落ちるように膝をつき、祈り、あるいは懺悔の形に組んだ両手を彼女の膝上に差し出す。項垂れた頭も同様に。腰掛けた“主人”の前に跪く構図は、五日前の夜を彷彿とさせる。あの後“お仕置き”を告げられた男は、少なくとも自身が記憶を有する期間において初めて他者の体温の傍で眠った。彼女の側に顔を向ける形で身体を横たえた時は一睡もしないと豪語していたにも関わらず、決して広くはないベッドを共有するもう一人の存在に興奮以上の安堵を憶え、気が付けば子供のように深く眠り込んでいたのだ。)
ヨハネ 2020/02/14 (Fri) 05:34 No.74
(あだっぽい女声が発した”期待外れ”を、低く押し込めたような男の声が反芻する。ひどく心を搔き乱されて、また、はっ、と苦しげに呼気が喘ぐ。水面から顔を突き出して息継ぎするみたいに、首を擡げる――それが良くなかった。塗炭の苦しみにまみれたあなたよりも、蕩けて匂い立つほど微笑んでくれるあなたの方が、好きだった。)……あなたのこと……お店へお越しくださる殿方にそうするのと同じように、一緒にいる間はきっとご期待に沿えようと思っていたの、(彼に、”期待外れ”だなんて心得違いな不満を覚えたことは、一度だってない。ぐずぐずと首を左右へ振るう。)いい夢をみせてあげられるって、思ってたわ。そっちの方が良かったの。従順でいてくださる方が、私の身の安全も保障されるし、この国で生活するのに不自由も少なくなるもの。 でも、夢をみせてもらってたの、私の方だって気付いたわ。(打算は誤算に、ほら今も、それだけでは物足りないと強欲を垣間見せるあなたのことが嬉しい。 鏡の森で、まざまざと現実を鼻先に突き付けられるくらいなら、まだ耐えることのできた涙だった。一遍に込み上げてきて、双眸をネイルトップコートみたいに艶めかせる。優しくうつくしい夢中に身を置いている方が、よっぽど泣いてしまいそう。)馬鹿ね……あなたとワルツを踊っていた時、私、幸せだったわ。(霞ませた瞼の下、紫水晶は暗い水の揺れるような光を湛えて、つやつやと月に照らされている。声音までもが、互いに絃のわななくに似た調子だった。哀しい音楽みたい。こぼしてしまわないように上を向き続けていたのに、彼が再び膝を折れば、それを追う顎の曲線に従ってしたたり落ちる雫がある。)ヨハネ様。……ヨハネ様、(福音を呼べば、呼び返してもらえればそれだけで幸せになれる気がした。膝上に捧げられた懺悔の形を、誘掖するようにも、教戒するようにも両手で包み込まんとする。)……欲しがってほしいわ。(たった一息で、彼の願いを無碍にする。睦言の葉を食むようにも、小さく吠えるようにも。)命じられなければ奪えない? 私の許可が下りなければ指一本触れられない? "狼藉"を働いてはだめと言ったから? でも……、でも、抜け道は教えてあるはずよ。(欲しいも欲しがってほしいも、初日に言い付けた”触れるな”に等しい命令も、いずれにも適用可能な権利が彼には残されているはずだ。けど拒まれるのはどうしようもなくこわい。細かに震える指先から力が抜けていきそうで、ひととき唇を噛み締めて耐えた。そうしている間にも、目尻から垂れた水が、頬の稜線を幾筋競い合うように流れていく。)……どうしてしまいたいのかも分からないなら、片端からどうにでもしてみたらいいでしょう。それが、私の望みよ。(よく整備された柳眉がぐしゃりと歪む。あんまり涙が熱すぎて、堪えるように細まった紫水晶は瞼のあわいで融け出しそう。 ああ、嘘も隠し事ももうやめると言ったのに、さっきは嘘もついたし隠し事もした。もうとっくに彼のことが好きだった。寝所を共にしながら、ほんとうに何もしないで寝入ってしまったつれないひと。なんだかこういうの、いいな、って思った、拍子抜けしちゃって、自然に笑ってしまうほどで、漠然とした幸せを感じて、ずっと青髪を優しく撫で続けていた――。)
ルカ 2020/02/14 (Fri) 10:59 No.75
(星の声と循環する水の流れを除いて音という音が消え去った世界に、二挺のか細い弦が鳴る。しばしば休符を挟みながらも繊細な旋律が絶える事は無く、互いが互いを求め合うように交感し、響き合い、感情の奔流を塞き止める手段が存在しない事を知らせていた。歔欷じみた儚さで咽喉を引き攣らせれば、今度は頭を振って不可視の霧を打ち払わんとする。)“夢”などと仰らないで下さい。この世界も、私も、決して夢まぼろしではございません。このヨハネも、……私の心も、間違いなく此処にございます。(縋る眼差しが取り返しのつかない熱を訴え、突然胸の痛みを覚えたかのようにドレスシャツの襟元を片手で押さえる。――この内側を巡る血潮、心臓、己が確かに存在する事の証明。これが夢だとしたら、あんまりではないか。 眩しがるように双眸を細く歪め、咽喉から手が出るほど希求した「幸せ」の一語が耳を打てば、男を満たしたものは何もかもを赦されたかのような安堵にも似た多幸感。衣服の上から肌を掻きむしる風に五指に力を込めれば、枝のごとき血管が手の甲の皮膚に何本も浮かび上がる。彼女の艶やかに光る頬に、白い肌を濡らす情緒の正体に、今すぐ触れて確かめたい。しかし其のための権利を授与されて尚、ある種の自傷行為にも近い禁欲主義が果実へ手を伸ばす事を拒んでいた。)…………、ルカ様。………………ルカ様…………。(小さな貝殻めいた十指によって左右から包み込まれた其れは、彼女の手の中で心臓のようにひとたび動いたであろう。恩赦を受け打ち震えるように、はたまた罰に怯えるように――そして、二つの篝火が福音の引力に吸い寄せられる時、甘い毒を塗った刃のごとき宣告が男の懇願を鋭く断つ。諦観と恍惚の入り交じった視線が彼女の顎先に溜まる液体を捉え、下向きの睫毛が赤い海に光と影を生む。口を噤み、瞼を閉じても、左右の耳穴から煙のように入り込んで思考を侵食する背徳の教唆。目縁に涙を湛えながら此方を見下ろす女性の顔貌は、悲しいかな、凄絶なまでに美しかった。 暫しの沈黙を経て、観念したように息を吐く。眸子は油を流したように濡れて光っている、しかし涙は眼孔の奥に押し留めた。懺悔を解いて彼女の両手からすり抜けようとし、其れが叶えば相手が座す長椅子のへりに右手を掛けながら、脳内で“抜け道”の有効回数をカウントする。“私のためだけを思って行動する”“狼藉を働いてはだめ”――この身を縛る二つの戒律を、己が有する拒否権でもって黙殺するために。天上から糸で吊り上げられる風にして立ち上がれば、正面からベンチの座面に片膝で乗り上げる。彼女の逃げ場を封じるように両手で背もたれを掴み、叶うならば己より低い位置にある紫水晶と視線を通い合わせた数秒後。無防備な肩の後ろに両腕を回し、抱き締めようとした。)……申し訳ございません。(打ちひしがれたような囁きを肩口に落とす。)ルカ様がいらっしゃらない日々など、今の私には耐えられません。(綿のような柔さから始まった両腕に無意識に力が篭った。距離が失われた事により、余所行きの正装に身を包めど隠しきれない薬の匂いがさらに濃度を増したかもしれない。グローブ越しに感じる肩甲骨の硬さと、その上の皮膚の弾力。その手で触れて初めて、彼女の肢体の小柄なこと、丸みや柔らかさ、何よりこうして抱き合う事の何たるかを男は真の意味で知る。不意に腕の力を緩めて顔を起こし、再び互いの瞳を見合わせんとする。その燃え滾る色を目蓋の内側に閉じ込めると同時、愛撫と捕食の中間にあるような接吻を紅唇に擦り付ける事が、叶うだろうか。)私が必ず、ルカ様を幸せにいたします。ですから――今宵。私がルカ様を所望する無作法を、お赦し下さい。(相手の肩に顔を埋め直し、説き伏せるようにして告げる台詞は、その実赦されずとも構わないとすら宣うような盲目の延長線上にあっただろう。決して口約束では済まされない事、己が欲したものが決して容易には手に入らぬ代物である事、理性の底では承知しているつもりでいた。男は夢を現と見粉った、一人の幸福な愚者であった。そして、身分不相応な憧れを抱いた者には、何時しか必ず天罰が下るのだ。)ルカ様……愛しております。
ヨハネ 2020/02/16 (Sun) 11:46 No.90
(いつまでも"ここ"にいるとは限らないのよ――去っていく殿方の背に、毎夜呪詛のように唱え続けた戒めが、今、彼女自身の首をも絞める。饒舌なスカーレットが、狂おしいほどの熱を含んだ目付きで見つめてくる。眉間を引き攣らせて、固唾を飲むように唇を噛み締めた。小奇麗なドレスシャツに刻まれるしわの質感も、物言わぬ月下美人の花や天の星も、濡れそぼって気持ち悪い頬の涙も、すべてが夢だなんてとても思えないのに、彼だけがどこか浮世離れした存在のように感じられてならない。こんなにも焼けつくような眼差しは知らない。)……ほんとうに? なら……朝が来ても、ううん、いつまでも、私のそばにいてくださるの……。(シンデレラのドレスのトレーンが、裾端から光の粉となって消えてなくなっていくよう。問い声は、最後には吐息に混ざって溶けて消えた。華奢な丸みを持った顎の先で、自らの重みに耐えかねた一滴がまたぽつりと地に墜ちていく。『朝が来るまで、喜んで貴女様のお側におりましょう』――そう言ってくれたことはあった。でも今は、朝が来ても、と言ってほしい。ほしがってほしい、手の中のかそけき鼓動を温めながら、)……ヨハネ様、……あなたのしたいようにしていいのよ。(あなたを誑かす。息苦しげに眉根が歪む。対して、口元は笑んでいた。曲線を描きながら頬を流れてきた涙が、片方の口角から滑り込んできて、彼女の唇をしとりと湿らせる。何らかの準備をするみたいに。再び見仰ぐ角度となった彼のかんばせを、請うような目付きで追いかけた。赤い瞳の中に幾重にも折り畳まれた心模様が、月光に炙られ、融けて、油のようにぬらぬらとした光彩を流して見えた。胸が震えた。それを一身に授かりたいと思った。 抱き締めてくれる両腕を享受する。タキシードの脇腹から腕を通し、痩せぎすの、けれど大きな背中を抱き締め返す。もっと強く抱いてほしがるように首根へ縋って、瞼を下ろした。)もう謝らないで。 申し訳ございません、は、二度と同じ過ちは繰り返しませんって誓うのと同義よ。……教えたでしょう?(肩を竦め、吐息だけで少し笑った。申し訳ないことなんて、なにも。嬉しくて堪んなかった。)……私のいない日々にも耐えられるようになって、もしも”いつか”、あなたが私のそばを離れるなら……その時に一生分謝罪なさい。そうでないなら、私はあなたに、なんの罪も認めないわ。(またいつか――そう言って彼がお別れを口ずさむ時なんて、今生訪れなければいいのに。懇願か宣誓か、声は、ちりりと消えかけの線香花火みたいにいまだ震えている。 一日目には不穏な予感すら嗅ぎ取った、薬っぽい彼の体の匂い。今はもう安逸を齎すパルファムか、いっそ媚薬のよう。体温でぬるく火照ったそれは、一層濃く香って彼女を惑わせる。眩暈をやり過ごすように、ぎゅっとタキシードの背に爪を立てた。ほどなくして、不意に弛緩する腕の力が名残惜しいこと。ああ、でも、)……ヨハネ様、……っ(多分、待ち焦がれてすらいた。堰が切れたようなくちづけを受け容れたその時、分かった。初めて会った時、彼の目がおそろしいと感じたのは、この身に余るほど大きな――未だ嘗て、誰からも向けられたことのない――慕情をそこに感じ取ったからかもしれない。 濡れた重みで倒伏した睫毛のあわいから、薄らと彼を見遣る。それはそれは幸福そうな微笑みを携えて、盲人のように、もう、彼のことしか眼中に入らない。)ヨハネ様が望んでくださるなら……すべて赦すわ。あげるわ、尽き果てるまで、余すところなくすべて。私を。(説き伏せられたのだ。とろとろに蕩けきった蝋の中央で、か弱い芯が力なく横倒れになったかのよう――痩躯を彼の胸へと凭れさせる。 人に甘えるのは恥ずかしくて難しい。咄嗟に言葉が出てこなくなると、焦る。他人の幸せを心から願ったことなんて、多分、一度もない。願われたことも。いつも自分より成功した誰かのことを羨んで、妬んでいた。却ってあなたの方が、私のすべてを赦してくれている気がした。 これが”愛”だと、盲信したい。)……私も、愛してるわ……ヨハネ様。(時間という概念がなくなったかのように、厳かで、何物の気配もしない。音という音も絶え果てていた。夜色の底に、あなたの匂いと体温と、声と、心臓の音だけがあった。幸せだった。それでも尚、あえて言うならば――今宵は、「夢のような夜だった」。)
ルカ 2020/02/17 (Mon) 16:04 No.91
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