Mome Wonderland


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(夜あるけば、つまずく。)
(腐ったマーマレードみたいな夕暮れの中を、ひたすら走る。辺り一帯を取り囲む鏡の稜角が、ぎらりと鈍く光って彼女を迷わせる――どこまでいっても出口に辿り着けない。 不治の病を患って余命幾許もない? 心を病むほどのつらいハラスメントを受けた? 家族と死に別れて天涯孤独で、明日の糊口を凌ぐのにも一苦労? いいえ違うわ。自らを、諄々と掻き口説く。)(五日目の早朝、ちょっとそこまで、のつもりで繰り出した散歩の途中で、二足歩行するウサギの青年とはじめましての挨拶を交わした。全身は上質なコットンのような毛で覆われていて、中でもいっとう自慢の尻尾を見せてやるよ!――と得意がったところ、なんと、どこかに落としてきてしまったらしいと言うものだから。それからふたりしてファンタスマゴリア中を朝から夕まで飲まず食わずの大捜索だ。"彼"が家を訪ねてきたならば、ドードーが「長いお散歩に出掛けられていて……」と曖昧にお茶を濁してくれたかもしれない。)(――なによ、就活に失敗したくらい。これだからゆとり世代って打たれ弱くてだめ、いつまで甘えているつもり?)(落日の間際、ようやく見つけた雪見大福みたいな尻尾を一頻り鑑賞させてもらったあと、ウサギの青年とはそこで手を振って別れたのだ。達成感のあまり、帰り道の手配なんてすっかり頭からすっぽ抜けていた。)(二十六にもなって、この先、就職はどうしよう? 結婚はできるかしら? 同窓会や結婚式で一堂に会する旧友たちの姿が、漆喰のようにつやめく夜を背景に、ぼうっと映し出される。学生の頃はみんな横一列だったのにな。完膚なきまでに身近で現実的な悩みの種が、胸の奥で小さく芽を出す感触がもどかしい。)(彷徨い歩いた末、見るからに怪しい森の奥まで足を踏み入れてしまった。もしかして、ここがメディチナの森なんじゃないかしら? 見当違いも甚だしかった。あのかたはどこにもいない。)(混沌とした思いが、逃げ惑うネズミの群れみたいにわらわらと湧き出して心を占拠する。振り払うように走り続ける。足首に絡んだのはネズミではなく木の根だった。前のめりに倒れ伏す。すぐに上体を起こすも、彼女が一瞬足止めを食らったと見るや否や、それらは一層濃度を増して覆い被さってこようとするのだ。立ち上がれない……。)(将来に対する漠然とした不安は、いつも「こんなはずじゃなかった」に連接し、「真面目に生きてきたのに」に帰結する。それも、ただまともに、普通に、朝は朝星を夜は夜星をいただいて働くことさえできれば解決する小さな悩みだった。)(世の中には、もっとつらい思いをしてる人が星の数ほど存在するのよ。こんな取るに足らないことで、一丁前に心に傷を負ったつもりになってる自分が情けない。恥ずかしくって仕方ない。……お父さんもお母さんも、ほんとうはそんなふうに思っているのかしら? 二十年以上も丹精込めて育てた”成果”がこれ?って。)――はッ…………ぁ、っ、かは、(蹲ったまま、右手は擦り切れたエプロンドレスの裾を握り締め、左手は自らの首筋に触る。掻き毟るように爪を立てかけて、ひとたび、落ち着いて深呼吸をする。しようとする。できない。はっ、はっ、と浅い換気活動が繰り返されるばかりで、余計に苦しくなっていく。唇が痺れて、福音も呼べない。)
ルカ 2020/02/01 (Sat) 00:31 No.2
(二度目の訪問で懸念が確信に変わった。夕刻特有の湿度を含んだ風が、ぬらりと頬を撫でていく。相対するは丸眼鏡の奥を狼狽えさせ、真っ青な顔をして立ち尽くす少女。非力そうな手によって推し開かれた扉の奥には、其処にあるべきもう一人の気配が、無い。)……ドードー様。(よほど深刻に見える顔をしていたのだろう。華奢な肩が跳ねたのを見て、しまったと思い直した。すみやかに柔和な微笑を口許へと呼び戻し、片膝を折り能う限り目線を合わせようとする。“彼女”と異なり存分にあどけなさが残る顔ばせを見つめながら、なるたけ凪いだ声音を意識して。)……ご安心下さい。私が心当たりを探してみます。(約束と共に頭を下げると、青い裾を素早く翻し駆け出した。両足の駆動が勢いを増すにつれ、男の思考も目まぐるしく更新されていく。誓約を結んだ翌日から毎朝欠かさずそうしていたように“主人”の家を訪れた時、応対に出たのは世話役の少女の方だった。その時の違和感を放置せず、早くから彼女の所在に注意を向けていれば――。 事情通の店主、空飛ぶ鳥、噂好きの花たち、手当り次第に彼女の行方を訪ね歩いた。かくして辿り着いた場所は、過去の虚像が乱反射する迷宮、“鏡の森”。その不気味なほど静かな内部に躊躇無く足を踏み入れる。森は、無反応だった。新たな侵入者が鏡の木の真横を通り過ぎても何も起こらない。洞のようにぽっかりと虚無を映し出した鏡の間を潜り抜け、時々木の根に足を取られそうになりながらも走り続ける男の前方に、突如として道を塞ぐなにものかの影が現れた。目を凝らせば蹲るヒトの形をしている。)――ルカ様!(爛熟した空の汀に紺碧が滲む頃、喉奥から迸った“福音”は、自分でも驚くほど切羽詰まった鋭利さを帯びていた。真っ直ぐに彼女の目の前に駆け寄ると、半ば崩れ落ちるような勢いで膝を折る。乱暴にフードを外し、つややかな絹性のカーテンに隠された顔色を窺わんとしながら、)……ルカ様、落ちっ……落ち着いてください。大丈夫……大丈夫です。私が……お側に、おりますから……。(懸命に訴える男もまた、慣れないマラソンが原因で切れ切れに息が上がっていた。湿った地べたに片手を突き、荒い息遣いを乾いた唾液ごと呑み込む。「さあ、ゆっくり息を吸って……」相手にも己にも言い聞かせんとするような囁きで深呼吸を促せば、嗚咽に似たか細い呼吸も多少は収まるだろうか。少なくとも男の方はある程度まともに口が聞けるようになったところで、)……お怪我は、ございませんか。(緩やかに肩を上下させながら、ぽつりと問うた。これまで求められれば何にでも喜んで応じてきたが、“狼藉”は言うに及ばず、許しを得ない限りその神聖な肌に指一本触れようともしない。今この瞬間も例外ではなく、弱ったような眼差しばかりが相手へと注がれていた。)
ヨハネ 2020/02/01 (Sat) 17:19 No.9
(”アリス”の部屋を毎朝訪ねてくる彼は、迎えられたばかりの家庭の中で、自らの寝床の位置を覚えた飼い犬のようだった。二日目も三日目も四日目も、髪も服も化粧も、完璧に設えて、彼が望んでいると思しき格好と佇まいで扉を開けてやったものだ。――鏡面を叩くつぶてにも似た声が、蝶の名前を呼ぶ。ああ、どうして店の源氏名を彼に告げてしまったのだろう? 国中の宝石を掻き集めても敵わぬ美貌、と彼は言った。それも果たして、もう何年とは維持できまい。年老いて、皺だらけになれば風俗嬢としてすらだれにも見向きもされなくなるかもしれない。顎先が重くて仕方がないような調子で、のろのろと首を擡げる。)…………よ、は ね、……さま。(瞠った網膜が限界まで張り詰めて、破けそうだ。紫色の実の中には、どろりとした汚い液が溜まっているかもしれない。掠れた声音でようやくと彼を呼ぶ。深紅はもう間近にあった。地上で溺れ、死に物狂いで息継ぎをする醜い女の顔が浮き彫りになる。彼の目もまた、鏡だった。苦悶に歪む眉の間を、脂汗らしき一条が鼻筋に従って滴り落ちていく。額に張り付く前髪もひどくみっともなくて、顔を背けた。十指を酸素マスク代わりのように丸め、口元を覆う。そうしている間にも、彼が、大丈夫、大丈夫、と繰り返し慰撫してくれる声と、”上手くやってる”友人たちからの激励とを、同一視してしまいそうになる。幾重にも折り伏せてくるやさしさに潰されないように、深呼吸、深呼吸、と彼女もまた繰り返し唱えた。彼の息遣いの痕跡を辿るように、同時にゆっくり息を吸って、吐いて、吐いて―― 吐きそうだ。反吐が出そうだ――薬師さまですって。現代で言うところのお医者さまなら、人生勝ち組ね。いいわねみんなに慕われて。必要とされて。私の些末な悩み事なんて、あなたにとっては取るに足らないことでしょうね、私の気持ちは、あなたにはわからないわ――此の期に及んで、皮肉や厭味や八つ当たりのひとつを取っても、汎用的でオリジナリティーに欠けていて……わらっちゃう。)っふ、ふふ、(引き歪めた口唇の姿は掌の中に隠されていたものの、漏れ出した呼気は震えていた。 大人になると、無性に寂しくなる夜が、一定周期でやってくるものでしょう。こんなのは珍しくもないこと。やり過ごし方はとっくに覚えた。ひとりでできる。いまだ、幻影は舞台のスポットライトの位置を切り替えるみたいに、四方八方に消えたり現れたり、彼女の過去を放映することに委曲を尽くしている。彼は、これが見えていて、聞こえていて尚気に留めていないのか、どうなのか。俯き加減に、首を左右へ振る。怪我の有無を応えているわけではない。)……どこかへ行って。ほうっておいて……。(私はそうしてほしいけれど、そうすることは私のためにならない。左様な時、あなたはどうなさるの? 項垂れるようにして、片掌を額へ滑らせた。一刻も早くこの森を抜けたくても、彼女は立ち上がれないのだ。)
ルカ 2020/02/01 (Sat) 19:44 No.13
(呼ばう音の響きを丹念に刷り込まれた耳は、それがいかに微かな囁きであろうと鋭敏に反応する。しかし平素とは似ても似つかぬ掠れた声質に、息を呑んだ。普段であれば“女王”としての威厳たっぷりに微笑んでいる美貌も、今は呼吸の仕方を忘れたかのように苦しげに引き攣っている。ふいと顔を背けられてしまえば、乱れ髪の動きと共に淡い石鹸の香りが鼻先を掠める。それも森深くの陰鬱な空気によって瞬時に掻き消された。)ルカ様……?(奇妙な笑声が鼓膜を擽れば、半ば拍子抜けしたような呼気が唇の隙間から転び出る。様子が可笑しい。隠された顔ばせをなお覗き込まんとするような不躾な真似は犯さない。だが顔色を読み取るまでもなく、彼女が心身共に弱り果て、平静を繕う体力も気力も喪失している事は明白だった。かけるべき言葉を見失い、呆然と旋毛を見下ろしていると、誰のものともつかない声が梢のざわめきのごとく降り注いでくる。そこでようやく顔を上げ、幾多の幻影が入れ代わり立ち代わり二人を取り囲んでいる事に気が付いた。知らない顔、知らない場所、知らない彼女が、瞠られた真赤のスクリーンに繰り返し繰り返し投影される。普段の――男が知っている“女王”の振る舞いからは、想像もつかない彼女の姿。大丈夫。大丈夫。大丈夫。まるで先程の男の呼び掛けを真似るような輪唱が、脳内にしつこく反響する。)ルカ様……、(再び視線を落とし、無意識に伸ばしかけた手が“命令”を受けて止まった。初めて聞くような声色の刺々しさ、投げやりな響きに喉が詰まる。内側から胸を叩く動悸はもはや運動の余韻によるものではない。男は迷っていた。主人が一人になる事を望むなら、其れに応えるのが己の役割。しかし彼女の言う通りにすれば、この暗く冷たい牢獄のような森に彼女を一人取り残す事になる。神妙な面差しで眉間を詰め、暫く黙り込んだ末――男は片手を引っ込め、その場に立ち上がった。そして裾が土で汚れたローブを脱ぐと、其れを蹲る彼女の背中に掛け、さらに叶うならば視界を遮る風にして大振りなフードを被せてやろうとする。まるで、彼女を苛む虚像から護らんとする魔除けのように。)……最初に貴方様が仰った事を、覚えておいでですか。(再び膝を折ると、姿なき声に対抗するように髪で隠れた耳許へ口を寄せる。静かだが芯の通った声で説き伏せる風にして。)「私のためを思って行動する」ようにとルカ様は仰いました。私は、そのご命令に従って行動しております。……今の貴方様を置いて行く事は、貴方様のためになりません。(決して責める風ではなく、しかし確かに、これだけは譲れないという意志が宿った口調であった。また其れはある種の懇願のようでもあった。そうして語りかける間にも鏡は容赦無く彼女の過去を男に見せつける。一度は曇った表情を即座に立て直すと、再び薄い唇を割って。)一人になりたいと仰るのであれば、まずはこの森を抜け出す事が先決でございます。……出口まで私と一緒に歩けますか?
ヨハネ 2020/02/02 (Sun) 12:54 No.21
(大袈裟すぎるのだ。何度も言われたからもう自分でもわかっている。極めて現代的で、安易で軽率な絶望感。黒い髪、飾り気のない靴とバッグ、ありふれたリクルートスーツを身に纏った就活性たちの影が、ふたりの横合いを規則正しい足並みで歩き去っていく。その中にはかつての、顎のラインで切り揃えたショートボブと緊張した面持ちを連れる吉本成果の姿もあった。けれど、たとえ、それが彼に見えていたとしても見つけられない。草木が生い茂ってさえいれば、鏡の森もメディチナの森も、雑木林ですら区別が付かないかもしれない彼女の目と同じで。 その時、ふわりと、嗅ぎ慣れない他人の匂いが彼女の上へ覆い被さった。覆い被さるといっても、圧迫感とは別の、別の、なにかに包まれるような感じだ。ひとたび驚いたように目だけで彼を見仰ぐけれど、それもすぐにヴェールの中へ呑み込まれていった。)…………おもたいわ、(喉よりも唇そのものが発声したような、か細く、表面的な非難をこぼしながらも――背に掛けられたローブを、己が身体ごと抱き締めるように胸元へ手繰り寄せた。小さな頭はフードの中へすっぽりと隠されている。肩口から正面へ流れるショコラブラウンの波打つ様子だけが辛うじて女型で、それがなければ大きな青いイモムシみたいだ。――この五日、彼に言い付けた仕事なんて精々、ファンタスマゴリアの道案内とそのついでの話し相手くらいのものだった。特段触れも触れさせもする用事はなかった。だからまだ彼の匂いを知らない。安堵を齎されることもないはずなのに、不思議と、草っぽい薬の香りに気分が一時的な小康を得る。 それになにより、あったかかった。)ひとりに……なりたい、わけじゃないの。ひとりで立ちたいの。(摺り足するようにもぞもぞと両膝を動かし、ほんの少し彼に近付く。肩と肩が触れ合うすんでのところまで、できるだけそばに。強い意志に裏付けられたような声がもっとよく聴こえるように、それ以外には耳を傾けないで済むように――でも触れない。肩を支えられても背中を押されても、最後はひとりで自分の足で立ちたい。ただそれだけのことが途方もなく難しい。彼は助けてくれると思った。助けてくれてしまうと思ったけど違った。よかった、って思う。)ひとりになりたいわけじゃないの、……ごめん、さっきのは……八つ当たりよ……。(縋るようなリフレインが、思いがけず念を押す言い方になって恥ずかしかった。絶対に気取られないように密かに、小さく鼻を啜る。がつんと叱られてる真っ只中は平気でいられるのに、別のだれかに優しく労われたら一遍に涙がこみ上げてくる、そういう感覚に似ていて、戸惑った。生まれたての小鹿よりも覚束ない足取りで、ようやっと立ち上がるのには随分骨が折れたし、時間も掛かった。背丈にも身の丈にも合わないローブの裾を踏んづけてよろけたりもした。)……出口がわかるの?(おずおずと尋ねる顔色は土っぽいけれど、それもまたフードの奥。彼女の目には、この森が合わせ鏡の原理で今この瞬間にも蠕動しているように見えていた。どこに目を遣っても、延長線上に無限に続く鏡像が行列のように立ち並んでいる。最奥が遠く遠くに、あるのかもわからない。)
ルカ 2020/02/02 (Sun) 15:05 No.24
(苦言を受け「申し訳ございません」と律儀な謝辞を返す。一方で“無礼”を撤回する気はさらさら無いのだから、下僕としては存外に不出来な部類であるかもしれない。若干くたびれた布地にすっぽりと包まれたシルエットは、外界から身を守らんとして背を丸める青い針鼠のようでもあった。途端、ローブを羽織った相手が僅かながら身を寄せてきたので、突然肩を押されたかのように瞼を上げて身じろぐ。されども彼女が自分自身ではない誰かの気配を欲しているのだと悟れば、ほど近くで繰り返されるフレーズに耳を傾けて。)……はい。(ただ一言、柔らかな相槌を返した。「ひとりで立ちたい」という一言が、着飾らない彼女の本音としても、矛盾した“命令”の正答としても、探していたパズルピースの欠片のように腑に落ちた気がした。 彼女がローブの中で身体を起こそうと格闘する間、忠実な騎士さながらに黙々と側に控え、やがて立ち上がったところで男も続けて膝を伸ばした。小柄な体躯が傾きかけた折には反射的に手が出たものの、それも杞憂に終われば安堵した風に肩を落とす。)来た方角は記憶しております。鏡の錯覚で空間が引き伸ばされて見えますが、実際にはさほど大きな森でもありませんので……方向を見失わなければ抜け出せるかと。(後半は憶測だ。男にとって魔法の鏡は恐怖に値しないが、普段から好んで足を踏み入れるような場所でもない。黄昏と夕闇がグラデーションを成す天井を仰ぎ、次いで無限とも思われる歪曲した空間を慎重に見渡すと、己が来た方向に爪先を合わせ一歩踏み出した。この数日間で把握した彼女の歩幅や足取りより更に緩慢な歩みを意識する。途中、視界を横切った人影を首から上だけで追い掛けた。鏡の雑木林は切れ切れのスクリーンとなり、ファンタスマゴリアではない何処かの風景を映じる。この世界の王都と比べても遥かに発達した、しかし何処となく殺風景な印象が拭えない無彩色の街並み。全員同じに見える黒色の衣服を纏い、操り人形のように隊列を成して往来する群衆を眺めていると、じわじわと胸が詰まるような息苦しさを覚え始めた。気道を確保するように喉仏が浮き出た首根を片手で押さえ、反対方向へ顔を向ける。丁度男の傍に聳え立っていた樹は、全身を氷で覆われ凍てついてしまったかのように、やはり朧な影一つ映そうとしない。)……なぜ此処に?(あまり幻に気を取られては進むべき道を見失う。か細い手を取る代わりに問いを投げる事で彼女の意識を引こうと試みながら、注意深く双眸を細めて進路の向こうへ目を凝らし、虚像と虚像の裂け目を探り当てようとした。)
ヨハネ 2020/02/03 (Mon) 14:26 No.41
(長躯を覆い包むに足るローブは、一転して小柄な彼女が纏うにはずっしりと重たい。そういえば、だ、彼がその度を超えて慇懃な態度に反して、初対面の場で脱帽のひとつもしてみせなかったのには違和感を禁じ得なかった――単に日差しが苦手なのか、あるいは別の事情があるのかもしれない。鏡の森が彼の存在を無視し続けているのも奇妙だ。彼女もまた、彼のことを何も知らない。何も分からない。だのに自分ばかりが被害者づらを引っ提げて、一時の感情で彼に八つ当たりをした。それでも不服を申し立てるでもなく、眉を顰めるでもなく、ただそばにいてくれる”いいひと”だから、彼の望む姿で報いたいと思う。)……迷子になっただけよ。メディチナの森と勘違いして奥まで入り込んでしまったの。木々とお喋りできるわけじゃないもの……森なら全部同じに見えてしまって。(人助けもとい、ウサギ助けをしたつもりが、結局周囲の手を煩わせる羽目になった。後ろめたくて仔細を伏せる。片手でローブの裾をたくし上げるようにして持ち、もう片手は、彼の服の腰辺りでも、リードを握り締めるようにむんずと掴んでいようか。 女心は複雑怪奇だ。ひとりで立ちたい、でも歩く時はだれかと一緒がいい。長い脚が気詰まりそうに亀の歩みを呈するのが嬉しかった。ヨハネ様、と、決まり事のように唱える。)メディチナの森は……、ヨハネ様のお住まいは、ここから近いんですの?(舌の付け根が喉に引っつくほど、口内がからからに乾いていた。ファルセットの手前にあるような上擦り声でか細く尋ねる。でも彼の応答は待たない。)連れていって。(間髪入れず続ける。)お嫌なら、それでも構いませんけれど。(ほんとうに疲れていた。彼の方もそうだろう。ルカを家まで送り届けて自らの住処へ踵を返すつもりなら二度手間だ。というのは建前だ。――若く、可愛らしく、活力に漲った”アリス”たちと軒を連ねた家に今は戻りたくない。ここを出ても幻影が付き纏ってきそうで、それを思うと進むのも戻るのもこわくなる。でも、彼にすべて頷かせて支配したいわけじゃない。 唇を引き結んだまま、小さな鼻先だけでもうひとたび息を吸って、吐いた。ローブの陰で、睡気を晴らそうとするように睫毛をしたたかにまばたく。蝶が翅をぐっと広げて伸びをするみたいにさりげない準備体操。美しく、美しく。ローブの裾を持っていた片手が、フードを外し、肩口に揺蕩っていた豊かな髪を背中へと払う。オーガニックっぽい石鹸の香りが舞う。)ヨハネ様。拒否権を三回分差し上げますわ。……さっき一回使ったから、あと十日足らずで残り二回ね。二回までなら、私に逆らってもよくってよ。 お嫌なら、そうとおっしゃって。(命令とも懇願ともつかない囁き声を落として、唇を微笑みの形に造り上げた。)
ルカ 2020/02/03 (Mon) 18:18 No.43
……申し訳ございません。私が前もって鏡の森の存在を教えていれば、このような事には……(男が棲む森の紹介は付近を通りがかった際に軽く済ませていたが、鏡の森に関しては話題に上らせた事も無かった。彼女がこのような遠方まで一人で足を運ぶとは予想していなかったのだ。何故気が回らなかったのかと拳を握り締め、眉根に深い悔恨を刻み付ける。象徴的な青色のローブが無ければ、この男もただの特徴に欠ける青年だ。一番上までボタンを留めたシャツに細身のパンツといった出で立ちは初日の其れと殆ど相違無く、ただでさえ控えめなブーツの靴音も、全て平坦な地面に吸い込まれていく。)いえ、歩けない距離ではございませんが……(何も求められなければそれまでだが、手綱のごとくシャツの布地を掴む繊手は少なからず己の存在を必要としているようで、心の空白が満たされるような心地がした。現実の質感を確かめるように、硝子製の樹幹を掌でつるりと撫でた時、か細い疑問符を耳朶が拾い上げた。進行方向を注視したまま回答しようとして、)――は。(間の抜けた単音が落下する。足を止め、真意を図りあぐねた風に隣に視線を移すと、フードから凛とした顔ばせが姿を現した。孔雀が羽を広げる時のように、美しい所作で背中に払われたショコラブラウンの艶めきが、スローモーションのごとく波打ち男の網膜に焼き付けられる。形の良い紅唇より与えられるは条件付きの拒否権。立ち上る涼しげな芳香に、暫し囚われたかのごとく立ち尽くしていたものの、やがてチョコレートの欠片を口の中で溶かしていくように、じわじわと男が置かれている現状を理解し始めた。口角を左右に引き、深く頷いてみせたなら。)……承知いたしました。 今晩は、ルカ様を拙宅へ案内させていただきます。(そう答え、改めて森の出口を目指そうと。眼前に飛び込む何者かの虚像も、通り過ぎてしまえば二人を追い掛ける事は無い。途中で何度か爪先の向きを変えながらも歩き続け――そして、その時は訪れた。最初に比べて幾らも疎らになった幻と幻の間から、不意にこれまでと趣の異なる風景が顔を出す。この森が作り出す幻影ではない、正真正銘の“外”の景色だとすぐに知れた。 外側から見た鏡の森は、中で見た悪夢が嘘のように、何の変哲もない木々の集合体の姿をしていた。殺風景なファンタスマゴリアの外れを歩いていると、運良く馬車が二人の前を通りがかった。)メディチナの森までお願いいたします。(アーチ型に布を張った馬車へ乗り込み御者に告げると、気のいい挨拶が返ると同時に栗毛の馬が地を蹴る。舗装が進んでいない道の上で揺られながら、)……ちなみに、メディチナの森には言葉を話す樹もあります。後ほどご紹介いたしましょう。(と告げるものの、車体ごと激しく揺さぶられてすぐさま口を閉じた。辺りは既に薄暗く、背の高い木々の向こうに、絢爛な王城のシルエットが見える。馬車は初め彼女の家がある中心部に近づいている様子だったが、途中で遠ざかり、やがてファンタスマゴリアの東端に存在するメディチナの森の前で止まった。)
ヨハネ 2020/02/04 (Tue) 05:28 No.51
(まったく違っていると見せかけて、存外似通った部分もあるものだ。彼も大概よく謝る。なるほど、自分の落ち度を他人に取って代わられると、大切に想われている実感が湧く。左様な考えは歪んでいるから、当然舌頭には上らせず、ただ彼への抗言と自らへの苦言のために首を横に振った。握り締めたシャツを少し咎めるような調子でくい、と引く。「……そんな顔なさらないで」)せっかくの美丈夫が台無しよ、ヨハネ様。ちゃんと迎えに来てくださったじゃない。……ありがとう。(過ぎ去ったものたちの群立が彼女をせせら笑っても、見て見ぬふりをして上手くやり過ごせる。さっきは突然のことで取り乱したけれど、もう大丈夫だ。きっと。微笑んで、くすぐるような煽て文句すら口ずさみながら、大丈夫、大丈夫と、今度は自らが自らの胸奥に言い聞かせる。でも、こんなことひとりで一晩中続けていたら、心がぺちゃんこになってしまいそうだから。今夜は一緒にいて、と、皆まで言わずとも汲み取ってくれる彼のことがありがたかった。)……そう、…………良かった。(思いがけず、安堵に息をついた。雁字搦めの糸がふわりとほどけたように、表情から力みが抜ける。彼もまた、ようやく哀しい顔をよしてくれたような気がする――求められることで承認欲求を満たそうとする人種なのかもしれない。彼女と同じように。"それ"に応えることを名目に掲げれば、素直に言ってしまっていいかしら。ご機嫌を伺うような動きで、紫色の瞳だけがちらりと彼を見仰いだ。)なら……朝までずっと、一緒にいてくださる? ……そ、……そばに、いてほしいわ…………あなたに。(蚊の鳴くような声だった。夜の蝶が聞いて呆れる。言葉にしてみればドラマや映画で百回は聞いたことがあるような、陳腐な誘い文句然とした台詞。年甲斐もなく、じわじわと頬が熱くなった。今更純情を騙ることのできる歳でも、立場でもないでしょうに。 縒れた眉毛を蟀谷に向かって引き絞り直し、「行きましょう」と彼を促す。シャツのしわを手繰る指先に力こめ、爪先から数メートル先に視線を這わせ、終始俯きながらとにかく足を動かした。数度の方向転換は霊柩車の復路によく似ている。迷夢が見せる幻を引き剥がすように時折頭を振ったり、ついには瞼を閉じてしまったりもした、ほとんど周りを見ずに、連れ人にくっついて歩くだけのお化け屋敷を抜けたような感覚だ。いつの間にか視界が開け、鏡の森は背後に遠ざかり、折良く馬車を捕まえることもできた。たっぷりと余ったローブの裾を腕に抱えながら、蹌踉とした足捌きでなんとか乗り込む。浅草や鎌倉の人力車よりはずっと安定しているものの、動物が引く荷車の浮遊感は少し独特だった。)喋る木ってほんとうにあるのね……なら是非、ご挨拶し――、(中世的と言えばいいのだろうか。未舗装の道の上で車輪が小石を蹴り、車体が荒々しく揺れる。一際激しい揺動の直後、舌を噛みそうになりながら口を噤み、咄嗟に彼の片腕に掴まろうともした。ほっそりとして見える上腕の辺りか、そうでなければ荷車のへりにでも両手でしがみ付きながら、じきメディチナの森へと運ばれていくだろう。)
ルカ 2020/02/04 (Tue) 13:10 No.52
(窘める風にシャツの裾を引かれれば、よく躾られた犬よろしく立ち止まり主人を振り返る。耳朶を優しくなぞる台詞に許されたような心地を覚えては、「……有難うございます」と目色をそっと明るませたりもした。 ところが、長い睫毛が翅のごとく羽ばたいて持ち上げられた時、男の口から声にならない動揺が零れ出た。何気ない風に重ねられたささめきが、純然たる願望の形をしていたから。まんじりともせず紫水晶を見返し、口唇を開きかけては閉じる動作を何度か繰り返したのち、)――ルカ様は、存外に“甘えた”でいらっしゃいますね。(おもむろに告げ、眦を柔く綻ばせる。これも失言に値するだろうか。華やかな振る舞いに反して多くを求めず、男を使役するというより取り敢えず仕事を与えておくような具合だった女王に、初めて本当の意味で必要とされたような気がした。「朝が来るまで、喜んで貴女様のお側におりましょう」充足した声色で続ける。そうと決まれば、まずは案内人としての使命を遂行するところから始めよう。些か“お転婆”な馬車に揺られ――もとい揺さぶられている間は、痩せた腕が止まり木の役目を果たせるように座面のへりを確りと握り締め。ようやっと地面に降り立つと、御者に気取られぬよう密かに安堵の息を吐いた。)……ルカ様。お気分はいかがでしょうか。(再び走り去る馬車を見送ってから相手に向き直り、「私、酔いに効く薬を所持しておりますが……」と右腰のポーチを叩く。男の方はというと、顔色が良いとは言えなかったが、平気な微笑を浮かべてみせる程度の気力は残っていた。ある種、人並外れて辛抱強い性格であるため、この程度の災難は本当に何でもないのかもしれない。森の近辺には監視用と思しき小屋が寂しげに佇むばかりで、その小屋も今は無人なのか明かりが消えている。外見のみで云えばそれこそ鏡の森と大差ないくらい奥まった場所であった。いざ、深緑の匂いが立ち込める入口へ爪先を向けたなら、相手を先導する形で我が領地へと足を踏み入れよう。)この森には薬の材料になる植物や鉱物が豊富に存在しております。たとえば、あちらの木の根に生えているハーブは煎じて飲むと肌に良いのだとか。(森の内部は、発光性の苔やキノコ、さらに宙を飛び交う妖精や羽虫の燐光が周囲を淡く照らし、却って外よりも明るく感ぜられるほどであった。エメラルドグリーンの世界。ひんやりとした空気を身に浴びながら、折に触れて簡単な解説を添える。時間によって色を変える花、四角い果実、巨大キノコの根元に設えられた小さな扉の事。途中で気になったものがあれば摘み取って手土産にするもよし。そうしてついに例の樹の元まで辿り着いたなら、軽く頭を下げて会釈した。)こんばんは、ミスター・ウッド。以前お話したルカ様でございます。(丁寧な中にも親密さが滲む口付きで、今宵の客人にひらりと掌を向ける。体幹を捻るようにして客人に顔を向けた樹が、「これはこれは、お美しいお嬢さん」と目を見開いて破顔した。)
ヨハネ 2020/02/05 (Wed) 00:54 No.61
(沈黙を食むように動作する薄い口唇に、なにか言ってよ、と思う。けれど、事もあろうに"甘えた"だなんて。かあっと顔中に含羞の色を浮かべ、複雑そうに眉をくねらせた。)そっ ~~んなこと、な……な、……(随分ご満悦そうに微笑みかけられると、喉奥が閊えて声も途切れざるを得ない。不意に見抜かれて、驚愕もあった。 甘えて縋って重荷になるくらいの方が、彼にとっては却って望ましいのかもしれない――でもできないのよ。したくても、したいのに、できないの。意思と意志は二律背反の関係にあって、斥力と引力が同時に働いている間はずっとその場で停滞し続けるしかない。彼女の人生がいつまで経っても動き出さないのもそのせいだ。――でも、でも、少しだけ足摺りをしてみようと、"そんなこと、な、"「くっ ない、ことも……ないわ……」とだけ、振り絞るようにつぶやいた。贅肉とは到底無縁そうな、痩せぎすの引き緊まった腕に掴まったのもその一環。細身であっても、男の人なんだなあとはたと気付く。)ちょっとスリリングだったけれど、私は平気よ。ヨハネ様の方が、ご気分が優れないように見えるわ。(馬車を降りたルカの顔色は、鏡の森に蹲っていた時と比べればいくらも明るい。寧ろ、揺さぶられるに加えてしがみつかれる、の板挟みに遭った彼の方が気掛かりだ。「お薬はヨハネ様ご自身がお使いになって」と水を向けながら、ゆっくりと、初日以来メディチナの森の奥へと歩を進めていく。)この間は、じっくり辺りを眺める余裕もなかったけれど……綺麗なところね。ヨハネ様は、生まれたばかりの頃からずっとここに住んでらっしゃるの?(甲斐甲斐しく案内してくれる声に従って、矯めつ眇めつ視線を移ろわせながら、徐に尋ねる。緑色蛍光タンパク質が彩るエメラルドグリーンの空間は、彼女が身を置くネオン街の風景に少し似てる。似ているけれど決定的になにか違う。すごく綺麗だ、羨ましいくらい。 まるで彼自身のよう。耳元を掠め去っていく妖精の翅の色調に釘付けになっていた目が、ひとたび隣のスカーレットへと戻ってくる。もしも視線がかち合えば、俄かに気まずくなって、「ハーブ、摘んで帰っちゃおうかしら」と横顔を背けたかもしれない。それでも程なくして、彼が件の言葉を話す神樹を紹介してくれる頃には、元通りの微笑みが唇を彩る。人間以外の生物が口を利いていてもいい加減驚かなくなってきた。)こんばんは。はじめまして、ルカです。突然お邪魔してしまってごめんなさい。一晩、こちらでお世話になりますわ。(すっかり馴染んでしまったおかげで、いつまでも借りっぱなしの青いローブの裾を、両手の指でちょこんと摘まみ上げながら会釈する。)以前、なんて言ってお話してくださっていたのかしら? ヨハネ様ったら、私のこと「思ってたのと違う」なんておっしゃっていませんでした?(つい今し方の彼の口ぶりを蒸し返して、にこやかな皮目へと小首を傾げてみせる。おどけて、何気なく世間話の尾っぽを引き延ばしたような調子でその実、はっきり確認するつもりでいた。 いまだに疑り深く、秘密主義で、自分のことを滅多には話したがらない。おまけに新米駆け出しレベルの女王が、彼にとって”期待外れ”でなかったかどうか。)
ルカ 2020/02/05 (Wed) 12:41 No.66
(苦笑の素振りで、仄かにくすんだ頬を弱々しく持ち上げてみせた。鋭いものだ。己の頼りなさを痛感する一方で、いとも簡単に見透かされるような力関係は快感でもある。「有難うございます」と返しながら、実際に鞄から薬の入った小瓶が取り出される事は無かった。この程度の酔いであれば、清浄な森の空気が何より優れた特効薬になる事を男は知っている。)いえ、……住み始めたのは比較的最近の事です。以前は薬作りの師匠と生活していましたが、師匠が町に医院を開いてからは一人で暮らしております。ルカ様が元々住んでいらっしゃった所には、此処のような場所はなかったのですか?(土や草木の香りを含んだ、されど泥臭くはない酸素を肺の中へ吸い込んだ。最初こそ覚束なかった平衡感覚も、足裏に馴染んだ地面の感触を踏みしめる内に順調に戻ってくる。従って、答える唇が一瞬もつれたのは体調不良が原因ではなく、過去を振り返ろうとして記憶にぽっかりと空いた穴と目が合ったためであった。秘密主義は恐らくお互い様だ。曖昧な回答で茶を濁し、深堀りされる前に視線を彼女へ向けようとする。グリーンの発光体が彼方此方を遊泳する森の中において、紫と紅の虹彩は異空間に迷い込んだ人魂のようでもあった。相方を見つけたと思ったそばから振りほどかれてしまった視線の意味は、男にはやはり見当もつかなかったけれど。)彼はミスター・ウッド。私よりもずっと以前からこの森に住む、大先輩でいらっしゃいます。(紹介を受けた老樹が、例の巨大キノコにも劣らぬ大きさの頭を差し出す風にしてお辞儀する。生い茂った枝葉の末端によく熟れた赤い果実が生っていた。どうやら彼なりの持て成し方らしい。太く頑丈そうな幹の肌は網目状に罅割れ、ざらりとして見えるが、表情筋の方は横に佇む男の其れよりも柔らかい。目尻の笑い皺、もとい笑い罅には温かい歓迎の色が湛えられ、何なら若干鼻の下が伸びているようにも思われる。見た事が無い「大先輩」の表情を少々意外そうに眺めつつ、一先ず静観を決め込んでいたものの、皮肉めいた質問が耳を小突くと視線をふっと彼女の横顔へ移した。まさか――咄嗟に開きかけた唇を明朗な笑い声が制する。「いやいや、この男はお嬢さんに“首ったけ”ですぞ。ああ、しかし……」思い出す風に身を捩る。「『決して多くを望まないのに、何か満たされないように見える』と、そう申しておりましたかな」)…………。(片手を持ち上げ、フードを目深に被り直す。被り直そうとして、ローブを着ていない事を思い出した。)……ルカ様、今晩はお疲れでしょう。お話の続きは明日になさるのが宜しいかと。(薄い微笑の形に塗り固められた唇を割り、つとめて穏やかな声調で提案を。次いで「それでは、失礼いたします」とミスター・ウッドに挨拶し、逆さまの川に沿って移動を再開しようとする。彼女が会話を続けようとするならば“拒否権”の行使はしないが、いずれにせよお喋りな樹の元を離れた後、)……拙宅に着いたら、まず紅茶をご馳走いたしましょう。ハーブティーはお好きですか?(川のせせらぎにそっと音を乗せるような調子で口を開く。他愛ない、重要性も低い話題で、不器用に間を埋めようとして。)
ヨハネ 2020/02/05 (Wed) 23:48 No.73
……まあ。お師匠様がいらっしゃるの……いつか、お会いできたらいいわ。(いつか。行けたら行くと言っておいて絶対来ない口約束みたいにお茶を濁したのは、彼自身が話題の転換を試みたがっているのだろうと知れたからだ。逡巡の間を挟んで挿入された沈黙の意図、真意までは分からないまでも、空気くらい読める。読めてしまう。馬鹿な女のふりをして深掘りできた方が良かったのかもしれない。薄らと笑んだかんばせを維持したまま、入れ違いで投げかけられた問いに首を横に振った。「緑と夢と希望が少ない国なの」――彼女の住む国には背の丈を追い越すほど大きなキノコも、おしゃまな妖精も、もちろん喋る木々だって存在しない。懇篤そうで、不思議とちょっと可愛らしいおじいちゃんのような神樹。住処を同じくする後輩を庇って、おべっかや嘘を言っているようには思えない。それで一層、人伝て、もとい木伝てに漏れ聞いた"評価"に、なんとも言われず暫時黙りこくるしかなかった。)…………そ……うでしたの、……(彼も同じだった。否定しないということはミスター・ウッドの言う通りに相違ないのだろう。スイッチさえ入らなければただ従順に傍らへ控えているだけの彼に、またあけすけに心を見透かされていると知って、堪らなかった。満たされない、だなんて、陋劣で、浅ましいみたいで。意味もなくローブの袖に指先を潜り込ませ、耳介のふちを赤らめる。最中、チョコレートを型に流し込んで固めたような、成形された彼の微笑みがやんわりと会話を切り上げるよう促した。穏やかなようでいて、有無を言わさない響きのようにも聞き取れる声だ。「え、ええ」「おやすみなさい、ミスター・ウッド」 どうにもこうにも居た堪れなかったから、二つ返事で彼に従い、老木のもとを後にする。 瀬鳴りの音色が、閑静な地に澄みかえっていた。人の話し声よりも、黙っている方が却って悪目立ちするほど、沈黙よりも静かな静けさ。少しずつ聞き慣れ始めた、彼の声。)……ハーブティー、あんまり飲んだことないわ。だから楽しみよ、ありがとう。(声自体が薄板ガラスにでもなったかのように、繊細に緊張していた。 ――彼もまた、彼女が聞かれたくないと思うことを聞かずに、ずっと労わってくれていたのかもしれない。ああ、でも、なにも聞かなければなにも始まらない。始まらなければ続きもしない、終わりもこない。それがたとえ、ハッピーエンドかどうかは分からなくても――。 私は彼と、始めたいのだろうか? なにを? 風に吹かれる川面の、柔らかく弾力を持った凪ぎ方はこんなにも穏やかなのに……この心は俄かに波立ち騒いで、落ち着かない。けれど、焦燥に取り乱す思いとは似ても似つかない、別の感情だ。ひととき、ふっくらとした涙袋の上へ睫毛を着かせ、あえかに息をつく。「……でもその前に、」)おうちにお伺いしたら、まずは……"私のためを思って行動"してくださったご褒美を差し上げなくてはね?(隣を見仰いだ紫水晶が、月光の下で幽かに白んでいた。もてあそぶ、とまではいかず、単に揶揄うというほどライトでもない口つき。唇には、明け方の欠けた三日月のような淡い微笑みが上っている。 ――彼だって同じだ。多くは望まない。それならば、やっぱり私と同じように、なにか満たされない? 満たして差し上げられるように、彼に望まれる姿でありたかった。)
ルカ 2020/02/06 (Thu) 04:16 No.76
それでしたら飲みやすい種類をご用意いたしましょう。(繊細なものに触れるように、いかにも丁重な口付きで言った。しかしそれだけだ。中途半端な距離を保ちつつ歩く二人の間を川音が抜き去っていく。静寂を却って浮き彫りにする、明晰な水の声。時間はしこりのような沈黙を洗い流してはくれない。 顔を逸らす風にして正面を向き、鼻から細い溜息を吐く。かの老樹でも彼女でもなく己に落ち度があるのだろうと直覚的に考えていた。だがその“落ち度”が分からない。黙考の海に沈んでいく目線を拾い上げたのは、会話の続きを引き取る彼女の声。)――っ、あ……有難うございます!(いかに利口を装おうと誘惑には弱い飼い犬の性分で顔を上げれば、月明かりを弾く玉肌が初会の面影に重なり目を見開いた。惰性的な歩みをはたと止める。分かりやすく明度を上げた音にありありと滲んだ喜色。青みがかった睫毛の奥で、蝋燭に炎を灯したような虹彩が光る。――が、ふと面差しを神妙な其れにすり替えると、)ですが……今回は反省点も多々ございます。ご褒美は有難く頂戴いたしますが、平和ボケした木偶の坊にはお仕置きも必要かと。どうかこの私めに罰をお与え下さい。正座でも食事抜きでもランニング10周でも、なんでもご随意にッ!(歯切れ良く言い切り、豊富なラインナップを誇示する商人さながらに大々的な所作で両腕を広げてみせた。危険な土地の存在を伝え忘れた事。“アリス”の捜索が遅れた事。己の愚行に目を瞑り及第点を享受するほど自身に甘くもない――尤も、気持ちのいい笑顔は自責や覚悟よりもむしろ爛々とした期待に濡れていたが。 何はともあれ、今の会話で幾らか常の調子を取り戻したらしい。緩やかな歩みを再開して暫くの後、ふと面持ちを改めて。)……先程は失礼いたしました。決して隠し事をする意図は無かったのです。(失われた過去の物語も、老樹が口走った“噂話”の内容も。呟くような告解を落としつつ、顎先に第二指の関節を宛がわせる。)しかし、敢えて伝える事もない……と存じておりました。それが、私の一番の過失だったのかもしれません。(聞かれなければ答えない。反対に、相手が話し出さない限り詮索もしない。鏡の森で目の前の“女王”とはかけ離れた幻影に出くわした時も、此方から徒に目を向けなければ実体を持たぬ影と同じように思われた。今すぐに断言出来るほどの確信は得られていないが、それでも何処か得心がいったような息を落とした時、川岸に男の住まいが見えた。煉瓦で造られたドーム型の小屋。曲線を描く屋根から排気用の煙突が突き出て、一見すると巨大な竈のようにも見える。)こちらが拙宅でございます。不便な家ですが、どうぞごゆっくりお寛ぎ下さい。(軋む扉を開き、内部に足を踏み入れてもらうように促そう。密閉されていた大気は冷たく、ローブに染み付いているのと同じ薬の匂いがひそかに立ち込めている。当然ながら客人を持て成す用意は何一つ出来ていないため、何処かに身を落ち着けるとすれば硬い木製の椅子か、部屋の奥にある一人用のベッド辺りが適当だろうか。)
ヨハネ 2020/02/07 (Fri) 00:23 No.86
……現金な人ね、(ともすれば、歪んだ性癖の持ち主だ。彼も彼女も。悦ぶ姿に安堵して、望まれることを望んでいる。自ら罰のwantを羅列するおしゃべりな唇に、不意に人差し指を押し当てることは叶うだろうか。「お仕置きはまだ、考え中よ」 触れ得たなら、身の程知らずな進言を窘めるように囁こう。断じて加虐嗜好の気などないのに、こうしていると満たされる。どうしようもなく。彼女が時折、動顛して小娘のように喚き立てるのも、彼が屡々"ゾーン"を発動して悦に入るのも、広い視野で見て考えれば相通ずるものがあって、やっぱりどこまでも、お互い様な部分の多いふたりなのかもしれない。)ヨハネ様は、悪くないわ。私だって秘密主義だもの、隠し事をするし、嘘もつく。(「でも、もうやめるわ」 森閑と更け渡る夜のしじま、足音のない歩みはもう暫し続く。お転婆な馬車から降りて以来、今ひとたび手繰るようにまた彼の服の裾を引いた。)憶えておいて。 私は、あなたのことが、知りたいわ。それから、失礼いたしました、申し訳ございませんでした、って、「同じ過ちはもう二度と繰り返しません」って意味よ。(いつかのように、一語一語をはっきりと言い切って、したたかな眼差しでスカーレットを見仰いだ。もう、隠し事はしないで。対等なギブ&テイクであるように、彼のことが知りたいなら、自らのことも知らせるから。 程なくして、子豚の長男が拵えたようなレンガ造りの小屋が見えてくる頃、ようやっと彼の手綱を解き放つ。)……今更だけれど……無理を聞いてくださって、どうもありがとう。お邪魔します。(不躾なことかと思えども、つい繁々と家の中を見回してしまう。今にして考えてみれば、知り合って一週間と経たない男の家に転がり込もうだなんて、軽率極まりないことだった。ちっとも"疑り深く"ない。自嘲の笑みが、どうしてか、愛しがるようにぬるく下唇を湿らせた。ずっと借りっぱなしでいたローブを脱げば、自分の肌と髪の香りがもう移っている。それもなんだか、可笑しなものだ。)洗ってお返しするわね、……って申し上げるのが定石でしょうけれど……もしかして、このまま欲しい?(手早く畳んだローブを一旦は腕の中に抱き締めたものの、ふと確認するように口を開いた。「残り香を慰みにされたいのでしたらどうぞ」 半分下ろした瞼のあわいで、挑発色の双眸はそそのかすような光沢を孕んで揺れる。いずれにしても、ローブは手近な棚かテーブルの上へでも置かせてもらうとして、改めて部屋の奥のベッドのふちへと腰を下ろす。 ドレスの下、たわわな白いパニエの中からすらりと伸びた両脚。クルーソックスが包む足首より先は、細い脹脛まで、何物にも覆い守られることなく剥き出しにされている。徐ろに、ミモレ丈のスカートの裾を太腿の真ん中ほどまでたくし上げれば、擦り切れて血の滲んだ膝小僧も露わになるだろう。鏡の森で転んだ時に負った怪我だ。さて、)――ご褒美に、触るでも舐めるでもお好きになさったらいいわ。それから、傷の手当てをさせてあげる。(これでも目一杯偉ぶった態度。ゆらりと低空飛行する右の爪先を彼へと差し向ける。"御御足"を放り出し、つんと顎先を擡げたおすまし顔は、薄い皮膚の裏にまだ少し恥じらうピンク色を透かしていた。)
ルカ 2020/02/07 (Fri) 04:49 No.89
(押し当てられた感触に、一瞬にして轡を噛まされたかのごとく口を噤んだ。隙間から絞り出された吐息の温度が白雪で出来たような指先に絡む。男に服従の悦びを教えるのも、身の程知らずな口を黙らせるのも、全ては我が女王の領分。首輪同然の裾を引かれれば一も二もなく足を止め、振り返る。)……、承知いたしました。全てお話いたします。ルカ様のお心に少しでも近付けるのであれば。 私も、ルカ様の事や本当のお考えを知りたいです。(一語一語、判を押していく風に強調する話し方。声を分節する読点の数だけ啄むような瞬きを落とし、そうして瞼を開ける度、意志を秘めたバイオレットが男の色を射抜く。「薬師さま」として町の者から慕われ何かを求められる事など日常茶飯事。されど男自身を「知りたい」のだと、迷いの無い口調で告げられた希望が、今振り落ちた流星のごとくに男の胸底を打ったのだ。はっきりと顎を引いたなら、曙滲ませる紫を誠実さを込めて見据えよう。常よりも僅かばかり稚い口振りで、彼女から受け取った其れと同価の本心を返しながら。)いいえ、いいえ。本日はまことにお疲れ様でございました。(錆びた鍵で玄関口を施錠し向き直る。四つのランタンによって照らされた室内には、中央の釜を取り囲むようにして、薬品や素材が細かく仕分けられた棚、流し場、机と椅子、ベッド、本棚といった最低限の家財が備えられている。小綺麗に掃除されてはいるが、床材や家具に年季が入っているあたり、元々男の前に住んでいた人物がいたのかもしれない。ローブを預かろうと歩み寄りかけたのも束の間、思いもよらぬ疑問符が耳を打つなり「え? いいんですか?」と馬鹿正直な反応が飛び出した。ほくそ笑む眼差しに耳の裏をなぞられたような心地がして、繕いそびれた面差しに悩ましげな色が乗る。「……ひとまず、お預かりいたしましょう」相も変わらずよく転がされる男心だ。まして、ベッドサイドの暗がりに生白い両脚がほのりと浮かび上がれば、尚のこと。)……。(鉄壁のスカートが目の前でたくし上げられていく光景を、固唾を呑んで見守っていた。眦に滲む色は彼女の其れより明瞭だ。すらりと伸びた足の先が、人魚の尾鰭のように泳いで男を挑発する。沈黙の後、「……有難うございます」とただ一言、掠れた声で応じるのが精一杯だった。木製の薬箱と濡らしたハンカチーフを持ち出して戻り、揺れる爪先の前に跪く。手始めにハンカチーフを手にし、もう片手を膝裏に添えたなら、まるで砂糖菓子を扱うように繊細な手つきで滲んだ血を拭き取っていこう。次に薬箱を開き、ピンセットで新鮮なガーゼを取り出しながら。)……私には幼少の記憶がございません。ですので、この家の他に帰る場所もございません。(手元に視線を伏せたまま、おもむろに切り出す。空いている片手を器用に動かして消毒液をスポイトに取り、ガーゼの中心に染み込ませていく。薬が繊維に浸透したのを確認し、顔を上げた。)ルカ様は……元の世界に帰りたいのですか?(一瞬躊躇う素振りを見せ、しかし結局は口にする。その答えを聞く前に、ピンセットの先が無防備な傷口へ伸びた。)
ヨハネ 2020/02/07 (Fri) 19:18 No.93
(周密で隙のない語調が、少し丸みを帯びる。初日は恐ろしささえ覚えた深紅の瞳が、まめやかにこちらを見ている。つい先ほど感じたものとはまた別の小部屋が、細胞が、ひたひたと幸いに満たされる感じがした。目尻を蕩けさすように静かに微笑んで、「うん。……嬉しいわ」と、これもまた静かに囁く。回数制限付きではあるけれど、彼には拒否権も渡してあるのだ。彼が彼女にすべて話すと宣誓したのは、彼が命じられるままに服したからでも、彼女が、自白を強要するようにつらく迫ったからでもないと信じたがった。 膏薬らしい匂いに鼻先を僅かにひくつかせながら、ベッドの上へと腰を落ち着ける。ローブを巡って差し出された茶番劇に、わざとらしく片目を眇めてみせはするものの、彼がそうしたいならそうしてほしいとすら思う。――夏でもストッキングに覆われていることが大半の脚に、素肌の指先が触れた。自律神経がおかしくなったみたいで、妙にくすぐったくて僅かに腰を捩る。太腿を摺り合わせるように動かすと、同時にパニエの布擦れがさわさわと鳴る――走って転んで怪我をするだなんていつ以来だろう? 不思議な感覚だ。大の男が恭しく小柄な女の足先を賜っている、不思議な空間。ここは不思議の国なのだと、また思う。)――みんなそうよ。小さい頃のことは忘れていくし、帰る家だってひとつでもあれば幸せなことと思わなくちゃ……、 そういうことじゃないわね。(そろりと、静けさと幽寂との間に差し込むように、彼が言うものだから。記憶がない。唐突で、俄かには信じ難い話。でも信じた。愚答のあとに、小さく首を横へ振って続ける。)あなたがどんなふうに”さみしい”のか、ちゃんと知りたいわ。教えてほしいわ、もっと、私にしてほしいこと。 心の隙間が多ければ多いほど、その分、私が満たしてあげられる範囲も広がると思えばいいの。(彼も”さみしい”のかと思いたいのは、彼女の希望的観測だった。「……お嫌?」と足下の影へ落とした視線は、見下すようなものではない。睫毛の先端が細かに震えて、己の言い分に自信がないような調子だった。心の隙間を愛しましょう。あなたの敵を愛しなさい。Do to others as you would like them to do to you.張り出した傷口に消毒液が滲みてくる感覚も久しい。脹脛が緊張するようにやや硬くなる。されど、自らのことも話して聞かせると決めたばかりだ。彼も、彼のことを話してくれたから。)……あんまり。そこまで躍起になって帰り道を探す理由は、特にないわ。家族や、お店のみんなは心配してくれているかもしれないけれど……いなくなってせいせいしてるかも、って思ったりもするの。帰らない方が喜ばれるんじゃないかしら、って。(はっきり眉を下げたり、かと言って繕うように微笑んだりもしない。無色のかんばせ。)でも……私が帰らなくちゃ、ヨハネ様の首が刎ねられてしまうでしょう? せっかくスタイルが良くていらっしゃるのに、首だけになってしまったら勿体ないわ。(差し当たって、それが今、ルカが帰り道を探さねばならない最たる名目のようなものだ。ささやかな笑み顔を取り戻した途端、唇の弧をこじ開けて小さな欠伸がくあ、と出た。瞼を緩ませながら、急にぼんやりと中空へ視線を放り、呟く。「あ……、」)お仕置きも今、思いついたわ。
ルカ 2020/02/07 (Fri) 21:47 No.96
(露わになった“御御足”は女性的でありながらしなやかな曲線を描き、足首に至っては容易に捕まえられてしまいそうなほど細い。男の身長に比例した掌と比べると精巧に造られた人形のようにも思える其れを、とりわけ丁寧に丁重に扱った。かと言って過剰に臆病になる風でも無く、床板に膝をついたまま相手の足許へと擦り寄り、患部を固定するように膝裏の窪みへそっと指を差し入れる。作業に集中していた眼差しを上向け、)“さみしい”……(唇の裏側で呟いた。初めて耳にする単語のように、どことなく放心した響き。付け足された一言に慌ててふるりと頭を振る。)……町の方々も森の皆さまも、私にとてもよくして下さります。私にとってはそれが何よりの幸いでございました。足りていないものなど、考えた事も……。(低い声で率直な心情を吐露するほど、目線は心許なげに沈降していった。己が“さみしい”のか、満たされていないのか、彼女に問われるまで考えてみた試しも無かった。ファンタスマゴリアは幸いと祝福に溢れていて、男は今の暮らしより他の生き方を知らないのだから。加えて他人に何かを求める事にも不慣れであれば、吸い込んだ酸素も行き場を失い結局口篭る。沈黙を誤魔化す風に、薬箱の中身を探る小さな物音が手元で鳴った。平坦な声色を耳にして「まさか、」と跳ね上がった語気すら、後に続く台詞を持たない事に気がつき打ち止めを食らう。)何故……そう思われるのでしょうか。貴方様がいらっしゃらない方が、向こうの世界の方々は喜ばれると?(一瞬迷った後、踏み込んだ。会話を続ける意図もあったが、純粋に彼女の事をより深く知りたかった。知りたい。もっと見たい、彼女の奥の奥を。一方で、必要以上に神経を刺激しないよう、絶妙な力加減で冷たく湿った繊維を患部に数度触れさせる。慎重に目を細め、傷口の状態を確認してから、手にしていた道具を薬箱の蓋に置いた。向け直した面差しは、複雑な苦笑に歪んだ風。)ルカ様のために首を差し出せるならば本望ですが、美しいお姿を拝見できなくなるのは難儀でございますね。貴方様との出逢いが、このような形でなかったら……(言葉を切る。血は既に止まっているようだが、念のためハンカチを裏返して細長く畳み、被覆の要領で彼女の膝に括りつけようとする。膝の外側で布の端をずり落ちないよう結んだなら、熱を帯びる瞳の行く先は膝から脹脛へ。滑らかなミルクを思わせる素肌に触れた事のある男は、自分以外に何人いるのだろう。)……貴方様のお傍にいると、自分が強欲な人間になっていくようでございます。(思惟に耽るような神妙な面持ちを数秒続けた後、宝石を手にするような恭しさで脹脛の膨らみに両手を添え、傷一つない脛におもむろに唇を寄せる。何かのまじない、或いはマーキングのように口付ける事が叶うだろうか。はたまた文字通り足蹴にされるか。いずれにしても男にとって“褒美”になる事に変わりはない。顔を僅かに離してから、妙に冴え冴えとした視線だけで主人を見仰いだ。)お仕置き?(先の己の言動を思い出し、命令を待つ犬よろしく続く言葉に従順に耳を傾ける。“お仕置き”の内容がどのようなものであるにせよ、男は盲従の悦びを湛えて肯くだろう。結局のところ、彼女に望まれ命じられる事こそが、今の男にとって何よりも重大な望みであるのだから。)
ヨハネ 2020/02/10 (Mon) 22:59 No.103
(取り分け細長い背骨を丸める姿は、眼下に在りながらにして、小さいどころか却ってとても大きなひとのように見える。膝裏をくぐる、男性的に痩せた指の肌触りがむやみに恥ずかしい。脚が少し震えてきそうで、ひととき息を止める。ふたりの体格の違いはたった今の光景を、大人と子どもが向かい合う構図のようにも見せるのに、それと同じに括るにはあまり背徳的すぎるように思った。)……五日前まで、この世界に私は存在していなかったわ。それでもヨハネ様の世界は、満ち足りていらっしゃったの? 私は欠けたパズルのピースじゃなくて、あとから付け足された余分だったかしら?(彼の”幸い”を否定したいわけでも、己と同じ価値観を押し付けたいわけでもないのに、やんわりと諭すような、説得するような声音になる。しかして、枕元で囁く時の、か細く遠慮がちな、小さな声。ねえ違うでしょう。私が入り込む隙間は確かにあった。足りていない部分にそっくり収まり、いま必要とされている作用を齎す。薬みたいに。あるいはその薬というのが、毒薬かもしれなくても。――濃青色の髪は、ほの暗いベッドサイドで眺めると混じりっ気のない黒のようにも見える。手当てに専念する俯き顔を、覗き込むことこそできない。でも、背負った沈黙に窺えるものがあるのも確かだ。それを知りたい。もっと見たい、彼の奥の奥を。だからまずは私の奥まで見せてあげる。 踏み込まれると、ひゅっと口腔を細く貫く吐息が漏れる。鼻に水が入ったみたいにちょっと痛くて涙ぐましくなる。)私、すごく不出来なの。二十六年間も大事に育ててきた娘がこんなで、両親はきっと、恥ずかしい思いしてるはずよ。……今、若くて綺麗でなくちゃできないお仕事をしているの……そっちも、そろそろ年貢の納め時だわ。お局様がいない方が、みんな喜ぶでしょう?(傷口が沁みたふりをして、狭い肩幅を更に窄ませる。もっとつらい境遇にある誰かさんからしたら、なんでもないことかもしれないのに、たまに、消えてしまいたくなる。本物の女王でもあるまいに、街娼にも等しい女の脚なんか、分不相応なほど念入りに扱ってくれる姿。ショコラブラウンの髪の表面にほのりと香りづけされた、彼が貸してくれたローブの匂い。彼と同じで――彼女の周囲の人間もそれは親切で、良くしてくれていた、でもこうしてるとまるで、生まれて初めて他人から優しくしてもらえたような感慨さえ湧いてくるのだ。「貴方様との出逢いが、このような形でなかったら……」――どうなっていただろうか? 丁寧に巻きつけられたハンカチが優しくて、急にせり上げてきた涙の気配が、目頭から下瞼へは溢れずに、しめやかに鼻の洞を伝っていた。罪もないひとのくちづけが脛の上に落ちてくる。そこに傷なんてないのに、瑕疵を舐められたようにびくりと震えた。薄い皮膚、硬い脛骨、軟らかい唇、息をつく。触れさせたのは"ご褒美"なのだから、足蹴にはしない。代わりに、彼の顎裏を人差し指の腹で掬い取ろうと手を伸ばす。わざとらしく、もうひとたび小さな欠伸を漏らしたなら、"お仕置き"を言い付けて差し上げよう。)私がベッドを借りるから、あなたは床で眠りなさい。……くらいじゃ、物足りないでしょう?(スカートの襞を整頓してから、脚を組む。前のめりに顔を突き出すと、堆い小山となった膝の上に、もったりとした胸部が弾力的に伸し掛かった。)ベッドに入れてあげる。 ただし、”狼藉”は禁止よ。あなたは、なんにもしたらだめ。我慢するの。ね?(貴族が貧民窟でも訪れたような威張り散らし様で、内心、これであってるの?と思わないでもない。されど、おくびにも出さずにきゅっと唇を結び、とびきりのプレゼントにリボンを巻くみたいに微笑んだ。「でもその前に、ハーブティーも頂きたいわ」と更に宣う。動物の喉でも撫でてやるように、人差し指の先を顫動させながら。 腰を砕いて骨抜きにして、あなたもひとりで立てないようにして差し上げられたらいいのにね。どこまでも自分と同じように、彼を仕立て上げたがっている。私は、決してあなたのためにはならない女王よ。)
ルカ 2020/02/11 (Tue) 13:59 No.104
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