Mome Wonderland


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(さても鐵、枳棘の匣)
(おそらく五日が経過した。おそらく、と言うのはファンタスマゴリアでは曜日の感覚が無いらしいからだ。彼に案内されるまま行く先々は毎日が祝日のようで、どこもかしこも平和にあふれている。どこからか「助けて」と呼ばれてやってきたはずなのに、誰も助けを求めている様子には見えなくて、声の主探しは早くも三日目には行き詰まってしまっていた。どれだけ困っている人を探したって、うっかりパンを焼きすぎてしまったとか、林檎を入れていた紙袋が破けて転がってしまったとか、木に引っかかった風船が取れないとか、自転車のような乗り物に中々乗れないだとか、如何にもカラオケのPVでありそうなものばかり。世良がどうにかしなくたって、ファンタスマゴリアならば誰かが手を貸してくれただろう、そんな微笑ましいものばかりだった。何処までも続きそうな空に向けて、ぐんと腕を伸ばして背伸びをする。決まって着ているミモレ丈のワンピースの裾が膝下にはらりと触れた。帰る方法が見つからないという以外は、此処は人が駄目になりそうなくらいに心地良い世界だ。諍いが無いというだけで、陰口を叩くような人がいないというだけで、羽を得たように足取りが軽い。帰らなければいけないのに、ファンタスマゴリアの住民に感化されて急く心が次第に薄れて行くのを感じる。顔を合わせるたびに甘いお菓子をくれる、ちょっとした顔見知りだって出来た。暫くは彼に付き添ってもらっていたけれど、そろそろ一人でだって行きたい場所に行けるはず。そんな慢心が、きっとつま先を森に向けていたのだろう。ふ、と──)誰か、いるの……?(悲しそうな声と、震える息遣いが耳朶を打った。初めて入り込んだ森の中、人影は見えないように思えるけれど、そもそも世良に助けを求めた声だって姿が分からなかった。もしかして、と思い違った世良の行動といえば更なる奥地へ足を踏み入れる始末で、だから、それが己の記憶を映し出しているのだって、気が付いた頃には帰り道が分からなくなっていた。鏡に映るのは、白い、真っ白いウェディングドレスをウィンドウ越しに見つめる過去。プロポーズされたら買おうって夢見ていた三百円ぽっちの情報誌。運命の人に違いないってのめり込んでいた。寂しいままの左薬指を食んだ。連絡の取れなくなった恋人。そのまま別の女と結婚したんだってね。かたや未成年の母。高校も中退して。碌な親にならないに決まってる。子供が可哀想、だなんて陰口にどれだけ呆然と立ち竦んでいただろう。小さく首を左右に振って、脚を引きずるように後退すればいつのまにか背に大きな木の幹が打ち当たる。)いや、(振り返れば、ひときわ大きな鏡がそこにあった。)いやだぁ……っ(瞳に飛び込んだ映像に瞠目する。両手で耳を塞ぐ。逃げ出そうとがむしゃらに駆けるのにどうしたって映像は世良に付いて回った。もう森の何処を走っているのかも分からなくなっている。「え」きゃらきゃらと笑う声に悪意なんかこれっぽっちも含まれていない、そんなことはわかっている、だけど。「せる、」小さな手を伸ばして、掴んだのは世良じゃない指。可愛い娘がはじめて覚えた家族の名前は、ママじゃなかった。)助けて、
ジュン 2020/02/01 (Sat) 00:05 No.1
(数えていないときっとわからなくなるだろう、数えるための暦がないファンタスマゴリアの日々は本日も恙なく変わりなく平和であふれていた。月から降る彼女を見つけた翌日から案内をし始めて、あちらこちらへと歩いてたぶん五日目だ。たぶんというのは、数えたわけではなく花の咲き具合で覚えているからなのだけれど。困っている人を探してはみたものの、ここでいう“困っている”なんて明日にはそんなこともあったと笑ってしまえることばかり。なにせアップルパイがちょっと焦げたくらいで大慌て。スコーンを焼き忘れたら大事件。失せものがあれば家じゅうをひっくり返すのも珍しくはない。それくらいのどかで微笑ましいものだから、彼女が態々呼ばれるようなものはまだ見つかっていなかった。今日も今日とて男は西の花園で鼻歌交じりに花の世話をしながら彼女の訪れを待っている。ピンク色の薔薇に水をやりながら、彼女が好きだと言ったダリアは今日はどんな咲き方をしているかと気にしてみたり。家まで迎えに行ったのが最初だけだなんてていたらくではあるものの、日時計で10時を過ぎても姿が見えなければ教えた道を逆にたどって迎えに行くのがお決まりのパターン。大体花園近くの道の途中で出会って、おはようと交わしてから一日が始まるのだ。何故家まで迎えに行かないのかと言えばまず、男の起床時間が彼女よりものんびりであるためであるとは余談。今日も朝にスコーンをかじりながら鼻歌と共に花園を一周して、日時計がちょうど10時を指すくらい。水やりのじょうろを置いたなら、花園を出て程なくして彼女と会えるだろうと――そんなことを考えて、疑ってもいなかった。ところが今日は道を行けども出会うことなく、彼女の家の前に来てしまった。ぱちぱちと瞬きが不思議そうに繰り返されて、もしかしたら彼女が今日は寝坊をしたのかもと扉を叩いて声をかけてみるけれど反応はなし。考えながら道をひきかえして、彼女がお菓子をくれるのだと教えてくれた子に聞いてみるけれど今日はまだ会っていないらしい。妙な所に迷い込んでいないといいけれど。ファンタスマゴリアはのどかだけれど、だからといって気を付けなきゃいけない場所がない訳じゃあない。歩きながら考え込んでまた花園への道を辿る、その途中。ころころと聞き覚えのある可愛らしい笑い声が耳に入って顔を上げれば、よく知る友の姿がそこにはあったものだから。)ねえコロラ、エト。ジュンを見なかった?(近づいて問いかけてみるのは半分だめもと。けれど行先やどの道を歩いていたかが分かれば迎えにも行ける。きっと道を間違えたのかもと、平和な日々に相応しき呑気な考えがなかったとは言えないけれど、その割にずっと花園と彼女の家を繋ぐ道筋を歩き続けている辺り、予感めいたものがあったのかもしれない。「わたしは見てないなぁ」「わたしも。あっでもさっき、そこの三叉路をまっすぐ行く“アリス”を見たって、ソプラがエセルのところに」)えっ(思わず声を上げて三叉路へ目をやる。花園に行くには左の道が一番近く、彼女に教えたのもその道だった。真ん中の道から花園に来れない訳でもないけれど、迷いやすく遠回りになり、道を間違えたら――)ありがとう!ソプラによろしく言っておいて!(途中まで考えたところで駆けだしたのは、辛うじて友に礼を述べてから。珍しく慌てた姿を見送られながらまっすぐ走って次の道を右に。花園近くの森に似ている森は幾つかあるけれど、この先にあるのは鏡の森だ。もしも足を踏み入れていたらきっと。)……ジュン、 ジュンーっ!いたら返事して!(迷い込んだ場所がここじゃなければいいと思うけれど、ここだったなら。珍しく張った声は、きっと夜に歌う声よりもずっと響いていただろう。)
エセル 2020/02/01 (Sat) 15:52 No.8
(朝、目覚めたのは六時ちょうど。見知らぬ土地に飛ばされたとて身に染みた起床時間は変わりなく、わざわざ目覚まし時計をかけているという訳でもないのに決まって早朝に目が覚める。お弁当を作らなくても良い分寝坊が出来るのに、それどころか出勤する先が無いのだから朝に起きる必要だって無いと言えば無いのに、決まって空が白から青へ変わろうとする午前六時なのだった。やることは無い。のんびり身支度をしてのんびり朝食を摂って、いつものんびりと彼の元へ向かう。その途中で寄り道をすることを覚えたのは三日目だか四日目だか、兎角余裕とは恐ろしいものだった。うっかりひとりで森の奥深くへ踏み込んでしまうくらいには。──ひときわ大きな鏡はどこまでも世良を追いかけ、詰めた。なんでもない。なんでもないことの筈だった。付きっ切りになって育児をしてあげられなかったのは間違いないし、食事を与えるのも遊ぶのも、世良が日中いない間はすべて祖母がやってくれていたのだから。それでも、)──っ、たあ……!(木の根っこだか鏡の破片だかに足元を抄われて、したたかにすっ転んだ先に、トン、と降ってきた鏡に映る娘の姿には胸を劈くものがある。起き上がるためにうずくまり、それなのに身体を起こすのが億劫だった。哀しさじゃなくってこれはきっと悔しさ。どこまでいったって余りものは余りものでしかないのだと突き付けられているみたいで。まるで反響しているみたいに脳内に響く陰口はひそひそと、梅雨のような湿っぽさで繰り返される。へたり込んで一歩も動けず、ウェディング風のワンピースはきっと土だか砂だかに汚れてしまっている。どこからか聞こえてくる彼の声だって初めは幻聴のうちのひとつだと思っていた。それが何よりもはっきりと、世良の耳殻を震わせるまでは。)……ぁ、……っ え、 エセル……? どこにいるの、(どこ、とあたりを見渡すけれど記憶の中の世良が邪魔をしてよく見えないものだから、服を手繰り寄せるみたいに胸元で両手を握った。彼の名前を呼ぶ。三度目には声帯を大きく奮わせて、叫ぶように。涙をこぼしている訳では無いのに、睫毛がしとりとして重たくなっていた。彼の姿が見えたのはそれからきっとすぐのことだ。けれど此方に向かってくる彼の姿に、背を向けて去ってゆく恋人の姿が重なって上手く腕を伸ばすことが出来ない。)い、……いかないで、 うごけないの、わたし……わたし、此処に、(捕まえなくちゃと思うのに、伸ばした手を掠める風を思うだけで指が竦む。呼吸ばかりが空回りを起こしていた。)
ジュン 2020/02/02 (Sun) 05:01 No.20

(声が聞こえたら、もうその後は迷いなく。考えるより先に足が駆けだしていた。鏡の森はただの綺麗な森じゃない。それはファンタスマゴリアの住民の誰しもが知っていて、あまり足を踏み入れたがらない場所だ。反射する鏡面の葉や花は確かに綺麗であるようにも見える。けれど鏡像は幻のように、憂いや悲哀をも映し出す。ファンタスマゴリアは平和で穏やかだけれど、完全に負と切り離されている訳ではない。だからエセルにとっては浮かぶ鏡に方向感覚が狂わされて迷いそうになるだけでも、別の誰かはその鏡に映り込むものに苛まれてしまうことだってある。きっと彼女は今とても怖い思いをしているんだろう。耳朶を震わす声が、その響きがそうやって教えてくれる。音ならば、特に声であるならば尚更に聞き逃さない自信があった。巡らせる視線よりも微かな声だって頼りにして、次第に近づくその声のもとへと馳せる最中には、ぱりぱりと踏みつける足元の破片の音が少しうるさくて眉を寄せた。けれど三度目、奮わせるような呼び声に呼応するように邪魔する鏡を途中で蹴破って、破片を踏みつけ砕いて走った先にその姿が見えたなら青い瞳が素早く瞬く。伸ばした手は、彼女が上手に出来ない代わりのように前のめり気味。はやく駆け付けたいがため、ちょっと減速に失敗してしまったので彼女の傍へと駆け寄った時には半場勢いよく抱き締めるみたいに捕まえた身体は、思ったよりも小さくて華奢に感じた。)いかないよ。どこにも置いてかない。ジュンと一緒に、傍にいるよ。(竦む指ごと腕の中に収めるように抱き締めて、膝を落とせば大丈夫と背中を叩く。柔い声で言い聞かせるように囁きながらとん、とん、と規則正しいテンポはまるで幼子を寝かしつける時のように。暫くそれを続けて、彼女の呼吸が少し落ち着いたのを聞けばそのまま片手を膝の裏に移動させてよいしょ、と。断りなく抱き上げるのは聊か性急な動作だったかもしれないけれど。)怖い思いをしたでしょう?まずは森を出ようか。出たら教えてあげるから……目を閉じて、耳だけ澄ませていてね。(安心させるようににっこりと笑えば彼女が瞼を落とすまで見つめていよう。目を閉じるのが怖いなら、ずっと俺だけ見ててと言い換えたことだろう。彼女の準備が出来たならば歩き出すと共に、男の唇がゆっくりと歌を紡ぎだす。子守歌のように優しく懐かしくて、けれどアリアのように響くうた。やわらかく広がる歌声は男が歩く度にぱり、と音を立てる破片の音さえ気にさせない伸びやかさ。そのくせ両手はしっかりと彼女を抱いているから揺り籠のように揺れることもなく、反射に遮られることのない光のもとに向かって歩んでいくことだろう。)
エセル 2020/02/02 (Sun) 23:20 No.33
(息が詰まるかと思った。実際何度も詰まっていたから、彼の名前を呼んだつもりになって碌に呼べていないものもあっただろう。平和なだけのワンダーランドだと思っていたファンタスマゴリアが、こんな側面を持っていただなんて露とも知らなかった。何故こんな森が、だとか、彼はこんな奥深くまで来てしまって大丈夫なのだろうか、だとか、平生なら疑問に思えただろうことが、今は頭がいっぱいいっぱいで考える余地も無い。ただ震え、凍り付いたように固まって動けない指先を胸元に寄せて名前を呼ぶだけ。近づく足音さえ今は罵詈雑言に聞こえてしまうのに、どうしてか彼が己の名前を呼ぶその声だけは透き通って届いた。酷く安心した。涙が零れ落ちそうになるくらいには。伸ばせなかった腕を攫うように身体ごとぬくもりに包まれて、喉奥で蟠っていた空気の塊が吐き出された。それに押し出されるように彼の名前を呼ぶ。)エ セル……っ、これはその わたし、わたしの……、(はく、と唇が震えた。背に触れる暖かな掌が鏡に冷やされてしまったらどうしようと、急に恐ろしくなったのだ。だってこれは世良にとって、わたしの、“わたしじゃなくても成り立った”記憶に他ならない。鏡に映る世良を彼に、他人に見られたくなど無かった。本当は世良にしか見えていないのに。彼の首元に両目を埋めるようにして呼吸を整える。額に触れる髪の柔らかさ、肌の質感、やさしい声に意識を集中させても悪夢のようなそれらは完全に消えることは無かったけれど、)──、っ ぁ……!(身体が宙に浮く感覚には、それまで動かせずにいた筈の腕も慌てて彼にしがみ付くよう回された。言われるがままに目を瞑る。かたく、かたく閉ざした。彼に意識を向けようとすれば男性特有の身体の形が良く解る。世良に背を向けて去っていった男もこんなだった、向こうはきっと本気じゃなかった、すくなくとも世良程には、それなのに熱を上げちゃってばかだな。気を逸らそうとするのに結局辿り着いてしまう過去の記憶に苛まれ、唇を食んだ。鼻を啜る。ああだけど、あの人の声は彼みたいに柔らかくはなかった。優しい声で歌ってはくれなかった。花の香りもしなかった──)──……ごめんなさい。助けられちゃったね、……わたしがだれかを助けに来たはずなのに。(彼に抱きかかえられたまま鏡の森を抜け、それから何処に運ばれただろう。何処に着いたにせよ落ち着かせてからの第一声はきっと謝罪だった。それから、)……みた?(と問う。てっきり彼にも鏡の中が見えてしまっていると勘違いしているものだから、気まずげに、うようよと彷徨う視線は鏡の森の方面を気にしてだろう。)
ジュン 2020/02/03 (Mon) 02:33 No.37
(きっと隣合わせだから、切り離せないのだと思う。光をあてたら影が出来るように。強すぎる光は眩しくて見ていられないように。片方だけじゃ成り立たないんだ。腕の中に捕まえた彼女が伝えてくれようとしている言葉を聞きながら、映し出す虚像から彼女を遮って空気を混ぜ込む。)大丈夫だよ、ジュン。……だいじょうぶ。(繰り返し告げながら冷えてしまった身体を温めるようにして、心の柔らかいところに刺さった見えない破片を取り除いていくようにうたう言葉は、単純だからこそ考えなくとも沁み込んでいくと信じて。けれど取り除いたからと言ってすぐに元通りになるわけではないし、いつまでも鏡に囲まれていたら晴れるものも晴れない。「驚かせてごめんね」抱き上げた後の事後報告も悪びれなく、しがみついた腕を確認したら目を瞑った彼女の額に、おまじないのようにそっと唇で触れてから歩き出そう。小さくて柔らかい彼女は、思っていたよりもずっと華奢で。これで誰かを助けようとしていたのかと思えば思わず胸中に感嘆が広がる。そんな気持ちで紡ぐ歌は途中、慰めよりも応援のような響きを残したかもしれない。花のように柔らかなのに、茎のようにすっと芯がある、光に向かって揺れるよな――正直に言うと、こういう時にはもっといい方法がたくさんあるのだと思う。もっと安心させてあげられるような魔法がきっと。だけれどその魔法を俺は知らないから、こうして歌うことしか出来ないんだ。花の香を残して鏡の森を抜けた後、そのまま真っ直ぐ西の花園への道を辿ってゆく足はずっと一定のテンポのまま。きっと森の外はいつも以上に明るく感じただろうし、そこにはいつもと変わらぬ平穏があるものだから瞼持ち上げればすべてが悪い夢かなにかだったかのように錯覚もしたかもしれない。けれど夢でも現でも、怖い思いを感じるのは一緒だから今は優しいものばかりが溢れるところで落ち着いて欲しかった。)助けに来たひとが助けられちゃいけないなんて、そんなことはないでしょう?俺も説明してなかったしね。(うたう声を止めたのは花園についてから。僅かに眉を下げながら出してくるのは、花びらをかたどった砂糖菓子。まるで本物の薔薇の花びらのようだけれど、口に入れると香りと共にほろりと崩れて溶けてしまう。紅茶にいれても美味しい、というのは今は余談でしかないけれど、こころを落ち着けるにはきっと役立ってくれるはず。)あそこは鏡の森って言ってね……鏡を見た人の記憶を映すんだ。だから見た本人にしか、映っているものは分からない。俺が見た鏡とジュンの見た鏡に映るものは違うんだ。だから、 ジュンが見て欲しくないと思ってるものは、俺は見てないよ。
エセル 2020/02/03 (Mon) 22:55 No.47
(瞼を持ち上げれば変わらず鏡はそこにあるし、耳を塞いでも聞こえてくる言葉は同じもの。けれど彼の声、大丈夫、が一つ積み重なるたび、すうっと心が軽くなる気がする。見えるものが見えなくなったり聞こえるものが聞こえなくなったりするわけでは無いのに、気にならなくなると言うのが近いだろうか。世良が誤って来た道を戻っているのか、それとも彼の知る道を戻っているのか、その道中は分からない。ただ、その身体にしがみついて揺られる間の、彼の体温とやわらかな声だけが現実だった。額に触れた唇の感触は、すこし、非現実的に思えた。──鏡の森を抜けた直後から、世良を悩ませる嫌な記憶のすべては霧散した。瞼を瞑って片時も開かぬようにしていても、ああ森を抜けたのだ、と解ったくらいだ。森を抜けても抱えられたままであったのは彼の気遣いが大半で、もう大丈夫一人で歩けるから、といつだって伝えることが出来たのに、心地よさから抜け出せぬ世良の甘えもあっただろう。少しずつ見知った景色が戻ってゆく。彼が住まう西の花園へ向かっているのだと察することも出来た。抱えられて道を往く穏やかな道中では、控えめな声量にて「それはあなたが作った歌?」と問いかけることもあっただろうか。「いい歌」だと素直に伝えることも。──花園について、漸く彼の腕から抜ける。心を落ち着かせるように数度深呼吸を行ううち、我に返ったように此処まで抱えて貰ったことが恥ずかしく思えはじめた。)でもありがとう、本当に助かった。ファンタスマゴリアにあんな、……場所があるなんて思わなくて迂闊だったな。(右手を己の身体にまわして、左腕をつかんだ。眉尻を下げて不格好な笑みを浮かべるのは、申し訳なさだとか先ほどまでの恐怖心を思ってのこと。ここは初めてファンタスマゴリアに落ちてきた翌日に連れられてきた花園と同じなのに、咲いている花がまるで違ってみえた。それはきっと心の持ち様に起因するものではなくて、本当に違っているからなのだろうけど。彼が髪に飾ってくれた白いダリアの姿はきっとあっただろう。好きだと言ったピオニー咲きの濃い赤のものも。受け取った花びらを模した砂糖菓子はまるで本物の薔薇のようで、ついまじまじと見つめてしまう。)そうなんだ……よかった。でもそれじゃあ、エセルは? 大丈夫だったの? わたし、随分奥まで迷い込んじゃってたよね。(彼の様子を見る限り問題はなさそうだけれど、我慢しているという可能性もあり得るかと思って。)
ジュン 2020/02/04 (Tue) 20:05 No.57
(何のことはない言葉の連なりが、どれだけ彼女の支えになれていただろうか。音と言うにも拙い繰り返しで、なに一つを区切ることが出来ている訳ではない。気やすめ、気の持ちよう、実際にはそんなところだっただろう。だってうたう歌にだって魔法がかかっている訳じゃない。ただ彼女が少しでも、虚像を気にしなくて済むように、自分を見失わないように、そう思っただけのこと。おまじないはおまじないでしかないから、ただそれっぽっちの気持ちで腕の中の温もりを抱えて森を出た。思い出して夜に魘されませんように、だから紡がれるうたが子守歌にも似ていたのかもしれない。そのまま彼女が何も言わなければ森を抜けた後も歌いながらまっすぐに花園への道を辿って西へ。もう森を出たよと、教えてあげることもきっと出来たけれど――少しでも長く、華奢な身体をあたためるように温度を伝えていたかった。だってそうすればひとりではないと感じられるはずだから。男にとっては見知った道のひとつだけれど、彼女からしてみれば知る景色が違う角度から見えているようにも思えてかもしれない。腕の中から歌に関しての問いがあったならば、前を見ていた視線を腕の中の彼女と合わせるようにして「たぶん。浮かんでくるままに歌ってるんだ」と。いい歌だと言われたら、少しだけきょとんとした後にふわりと花の如く、嬉し気に笑いもしただろう。なんでもないことだけれど、それはとてもあたたかく嬉しい。褒められたのだってはじめてではないけれど、なんだかぽかぽかと心が浮かび上がるような心地だった。)どういたしまして。ファンタスマゴリアは平穏に満ちているけど、危ない場所がないわけじゃない。誰かにとっては何でもないことも、他の誰かにとってはそうじゃない。鏡の森みたいに、過去の記憶や心を映すような場所もあるんだ。……たぶん、そういうのは生きるものから切り離せないから。(けれど気を付けていればなんてことはないし、そういう場所があったとしてもずっとずっと平穏な世界だ。きっと彼女は月から降ってきたから、余計に怖い思いをしたのだと眉を下げる。不格好な微笑みを前に、そうっと手を伸ばしてその髪に触れようとする。よしよしと、まるであやすみたいに撫でることが出来たならそれは優しい手つきで髪を梳くように。そのまま明るい色の髪へ、差し込んだ花は彼女が好きだと言った赤。濃さはどちらかと言えば薄い方だけれど、桃色と重なった花弁は可憐で優雅。コラレット咲きだ。恐怖で色を失った彼女のくちびるの色も大分戻ってきたとはいえ、まだ少し青白いからこそ明るい色彩を。砂糖菓子を見つめる様子にはつい、「食べても良いんだよ」と言い添えた。)……ああ、俺は大丈夫。鏡の森で映し出されるのは記憶だけど、俺にはその記憶がないから。(それが何でもないことのように告げるけれど、彼女からはどう映っただろう。特別不便も感じていないし、だからこそ鏡の森で我慢をする必要もなく彼女の事だけを気にかけて迷わず入り込めた。映し込むものがないのだからエセルにとっては本当にただの“鏡の森”に過ぎないから。ただ自分を気遣ってくれてだろう彼女の問いに「心配してくれてありがとう」と笑むばかり。)
エセル 2020/02/06 (Thu) 00:01 No.74
(それはきっと、幼子のころに口遊んだメロディに似ていた。或いは今じゃもう記憶もあやふやな乳幼児期に、ゆりかごの中で聴かされたその日限りの下手くそなドレミ。明日どころか一時間後にはきっと忘れているだろうその音階を、今だけは胸に留め置こう。)……平和なだけの人生なんて、ないよね。はあ~……でもなんていうかすごく、やなとこだったな……金輪際近寄りたくない。人の声が聴こえたと思ったら自分の記憶なんて、思わないもん。(あんな目に会ったというのに収穫はゼロなのだから、もう一度近づいてみようという気には到底なれない。なるべく明るい声色になるように、そうしてひょいと肩を竦めて見せれば、もう大丈夫、との意味合いにも取れただろう。彼はまるで人間の持つ優しさというものを人型に創り固めたような人だ。歌う声も、言葉も、髪に触れる指先までが優しい。委ねるように頭を傾けることはしなかったけれど、照れ臭くて目を細め、緩んだ口元は右手の指で隠した。その瞼を開いたのは、髪に飾られた花に視線を向けようとしたとき。自分の髪に飾られているのだからその全貌は勿論見えないけれど、視界の淵にうっすらと見えるのは桃色がかった赤だ。思わず頬を持ち上げて「これは何咲き?」と問いかけよう。教えてもらったならば、きっと明日以降もその名前を忘れない。渡された花びらをまじまじと見つめること数秒、食べられると知って恐る恐る唇で食むように口にしたそれは砂糖菓子のように甘かった。花びらの砂糖漬けとはまたすこし違う気もする。)記憶がないの? ……それってファンタスマゴリアの人たちは全員そう、ってこと?(折角飾ってもらった花が落ちてしまわぬように、緩く首を傾げる。彼に問いかけてはみたものの、住人皆記憶が無いのでは鏡の森が鏡の森たる所以が無い。なんでもないように言う、それは世良にとっては悲しいことのように思えるけれど、彼の笑みを前にしては何も言えなかっただろう。だから代わりに花園をぐるりと見渡して、彼に微笑みかけた。)ね、エセルはどの花が一番すきなの? 今日は咲いてる?(そういえば聞いたことが無かった彼の好きな花。これだけ囲まれた花園に住んでいるのだから、全部と言われればそれまでかもしれないけれど。薄汚れてしまったワンピースの裾を掌で何度かはたきながら、彼の返答を待とう。)
ジュン 2020/02/06 (Thu) 22:44 No.83
(明日には忘れるだけのメロディでも構わない。数時間後には変化している旋律でいい。ただ今この時、ちょっとだけ彼女の心を穏やかに出来るような、そんな音階であるだけでいいのだ。ファンタスマゴリアの空の下、男が奏でる声の理由はそんな小さなもので十分すぎるくらいだから。)生きるのは楽しいこと半分、それ以外が半分、なんていうみたいだから。……心配だから、今度はあんまり教えていないところに迷い込まないでね。(また探しに行くことを苦には思わないけれど、彼女がおびえているのはもう見たくないと思うから。もしも知らないところに行きたいのなら自分を誘って欲しいと言いたげに、窺うように視線を投げた。大丈夫、なんて簡単に済ませることが出来るようなものではないと、あの震えを抱いた感触がまだ残っている。出来ることは多くないのは、多種多様の住人のように誰かのために、何かの役に立つようなことが自分の中に見出せないからだ。それを気に病んでいるなんてことは、自由に生きてきたうえで何一つはないけれど。こうして彼女と向かい合っていると、もっと何かと思えてくる。陽に透ける、明るく柔らかい髪を梳きながら色彩を探して、差し込んだ色には満足気。うん、この色も彼女に似合う。纏う香りのようにふんわりと笑みを零して、飾られた花を問われれば「コラレット咲きだよ」と。浮かんだ無理のない笑みに安堵したようにして、彼女へ渡した砂糖菓子を自分も一口。滑らかな口触りはふわりと口の中で溶けて甘く広がり、まるで本当に花びらを食べているようでもあっただろう。美味しい?と問うように彼女を見やり、反応が好ましければもう一枚を彼女の唇へと運ぼうとするだろうか。)いや、持ってる子もいるよ。もちろん同じように持ってない子もいるだろうけれど……俺にはここで生きているっていうそれしかないというだけ。だから鏡の森に入っても、映り込むのは自分だけなんだ。(だから躊躇なく森の中に踏み入れた。恐怖を抱くこともなく、彼女を探すことだけに集中もできた。とはいえ記憶を持つ住人は鏡の森を避けるものが殆どなのも事実。そういう場所だと知っていたから、彼女を探していた時にははやくはやくと足が急いた。ただ記憶がなくたって何にも不便はしていないし、ここで過ごしている思い出がない訳でもないから何でもないことと浮かべた笑みはそのままに。)そうだな……どれも好きなんだけど、白い薔薇が、好きかな。今日はちょっと向こうの方で咲いてる。(ありきたりな好みで、どれがなんてあまり選べはしないけれど敢えて言うなら。棘のない真っ白な薔薇が好きだった。野ばらのように小さな花も、重なる花弁の大輪も。もし彼女が良ければ、「見にいく?」と問いかけて手を引こう。少しでも心が晴れるなら、今日は花園でのんびりと話をするのも良いはずだから。)
エセル 2020/02/08 (Sat) 22:11 No.102
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